終章 晴れわたる明日のように
35 ~その出逢いは、運命への~
平安貴族の朝は早い。
早朝3時ぐらいには目を覚まして、身体を清めたり、その日の運勢を占ったりする。
いままでのあたしなら、関係ないと無視を決め込んでゆっくり休んでいたところだけれど、これからはそういうわけにもいかない。
なんとか寝床から起き上がったあたしは、寝起き特有の重たい頭を引き摺りつつ、新しくあてがわれた部屋から這い出る。
「あ、姫姉さん、おはよー!」
部屋を出た直後に、背後から響く元気な声。
それは廊下に満ちる朝の静寂を切り破り、あたしに引き攣った表情を浮かべさせるには十分だった。
そう、それはこの屋敷の主の声。
無視なんてできるわけもなく、溜め息と共にあたしは振り返る。
そこには、予想通りの人物が立っていた。
「お、おはようございます、景麟くん」
「うん、おはよーさまだよ、姫姉さん!」
紅顔の美少年――大江景麟くんが、天真爛漫な笑顔でそこにいた。
「んー? 疲れてる? いろいろ大変だと思うけれど、はやく慣れてねー、姫姉さん。これでも僕ら、すっごく骨を折ってるから!」
「あっ、はい」
彼の言葉はどこまでも真実で、だからこそあたしは、頷くことしかできない。
あれから、いろいろあって。
ほんとうにいろいろあって。
いまあたしは、大江の家と
いわゆるひとつの修行というか、かなり曖昧にしてきたあたしの立場に対するツケが回ってきたというか……ようするにいい加減、信田姫なんていう架空の名義は使えなくなってしまったのである。
だから、縁があって名家でもある大江さんと源さんが、後見人という形で、あたしの面倒を見てくれているのだった。
いまのあたしには、立場が必要なのである。
そういうわけだから、あたしはこの美少年に頭が上がらない。
もっとも、夜這いなんてかけてきたら、思いっきり蹴りだしてやるのだけれど。
「むうぅ~! 気難しいなぁ……でも、いつかものにして見せるからね、姫姉さん!」
残念だけど、あなたには、ものにされないです。
内心だけでそう呟いて、あたしは小さく苦笑した。
◎◎
朝食を済ませたら勉強の時間だ。
平安時代で生きていくと決めた以上、学ぶことは多い。
……そう、あたしはもう、未来に戻ろうとは思っていない。
この大変な過去の世界で、現代と同じように、あるいはそれより必死に誰もが生きているこの都で、これからは生きて行こうと決めたからだ。
父さんや母さんにはごめんなさいだけど、まあ娘の幸せを願って目をつぶってもらいたい。あたしは結構、わがままなのだ。
「それはともかく、姫姉さん、はやく一句つくってよ。教育係筆頭の僕の立場もあるし、和歌のひとつも作れないと、上流階級の流行に乗り遅れるよ!」
「は、はいっ!」
冷や汗をかきながら、教師モードに入った景麟くんの
なにかひとつぐらい
まず、
香木というやつを焼いて薫りを楽しむ
次に
笛や琴なんて、無理に決まっていたのだ……。やる前から、そしてやってからも断念するしかなかった。
で、次にチャレンジしたのが
これは案外、いいところまで行った。身体を動かすのは得意だから、その辺の貴族より上手かった自負もある。
……でも、蹴りすぎて金屏風を破ってしまったから、景麟くんに禁止令を出されてしまった。
そうして、そんな風にしらみつぶしにやっていって、消去法で最後に残ったのが、和歌だった。
以前あたしが
それでもこの美少年は、あたしに和歌を詠んでほしいといったのだ。
それも何故か、恋の歌を。
「で、そんな僕の期待に応えてくれる歌は、思いついたかい、姫姉さん?」
「えっと、えっと……あ」
「なにかあるなら、いいよ、詠ってみて!」
彼の弾けるような笑顔に後押しされ、恥ずかしながらあたしは詠う。
それは、とあるひとを、ここ数日逢えていないひとを
――恋しくば 尋ねていくよ 和泉なる 信田の森の ねがい葛の葉――
思いのままに、心の内を口にしたその歌を。
景麟くんは、それを聴いて。
楽しそうに、目を細めて笑ったのだった。
「あ、次は自分との授業ですぞ、信田姫! 自分こと、菅原途綱もお忘れなく!」
どこからともなく現れた彼が、そんなことを言って、数学の宿題を山積みにしていった。
滅びて、途綱さん! そんな思いであたしは、あっかんベーをした。
◎◎
午後、ようやく勝ち取った自由時間。
あたしはへとへとになりながらも、都の中に繰り出す。
相変わらず貴族の
でも、以前は見えなかったものが、いまのあたしには見えている。
みんなが、懸命に生きている。
必死に働いて、そのへんに生えている雑草にすらかじりついて、本当に必死で生きている。生きて、なにかをしようと頑張っている。
いのちの輝きに、満ちている。
「そう、みんな必死なのさ。必死だから、争いも起こるし、いがみ合いもする。誰にだって、大事なものがあるからだから当然だ。で、そーゆーのをなんとかするために、俺達がいるってわけだ」
隣を歩いてくれていた、護衛役の源在雅さんが、そんなことを呟いた。
あたしは人々を見詰めながら、無言で首肯する。
苛酷だからこそ、みんな頑張る。
頑張っているから、ときには揉め事も起こる。
でも、それもすべては、誰もが強い意志を持っているから。
強く、生きていたいと願っているからだ。
「おっと」
在雅さんが、どこか楽しげな声を上げた。
見遣ると、彼の視線の先で喧嘩が起こっている。
「ちょっと行ってくるな、お姫さん」
「ええ、おつとめ御苦労様です」
頭を下げるあたしに、彼は男臭い笑みを残して、喧嘩の仲裁へと駈け出して行った。
◎◎
そのあと、最近めっきり老け込んだ加茂忠保さまにあって、宮中のお話を聞き、ついでに色々と便宜を図ってもらったお礼を言って、それから八咫姫さんとガールズトークを繰り広げ、何人かの貴族さんからのお誘いをツレなくして。
そうして夜。
満月の今宵。
あたしはそっと、大江亭を抜け出して。とある場所へと向かっていた。
護衛も舎人もつれないというのは、本当は危ない。だけれど、さすがにいつまでも会えないままなのは、心がつらいから。
だから、
京の都の、鬼門が位置するその場所に、あたしは向かう。
夜闇の中に、月光を受けて、その屋敷は静かに存在していた。
中心に温泉を有する、奇妙な邸宅。
勝手知ったる他人の家と、あたしはあいさつもせずに、なかへと忍び込む。
平安貴族の夜は早い。
きっともう、彼は眠ってしまっていることだろう。
それでも、あたしは一目逢いたかった。
そっと、彼の部屋へと忍び込む。
寝所の中で、彼は安らかな寝息を立てていた。
彼の顔に、初めて出逢ったときのような、諦観や絶望はかけらもない。重すぎる荷物を下ろした、安らぎだけが充ちている。
聞いているんだ、たくさんのことを、あたしは聴いているんだ。
悪右衛門を討ち倒したことで、剥奪されていた家名が戻ったこと。
それに伴い、貴族としての格も上がったこと。
なによりも――
「大好きですよ――保名さん」
「私もです――葛葉」
「ひゅい!?」
布団から延びた手が、あたしを抱きしめる。
そのまま、あたしを布団のなかへと引きずり込んで、そして彼――
いつも通りの、あるかなしかの微笑みで、あたしをまっすぐに見つめたのだった。
「え、えっと、えっと、あの、や、保名、さん……?」
「待っていました。ずっと、待っていました。今日は月がきれいですが、それよりもうるわしい、あなたのことを」
「~~~~」
顔が真っ赤になるのがわかる。
きゅ~っとなっちゃうのがわかる。
ドキドキと、心臓が跳ねている。
ああ、あー。
えっと。
保名さん。
「葛葉、いまこそ答えてください。返歌を、私にください。あなたは――」
――私の子供を、産んでくれますか?
その問いかけに、あたしは。
あたしは。
「――はい!」
ありったけの想いでそう答えて、そのまま彼に、身を任せた。
彼は泣き出しそうな顔になり、それから嬉しそうに
「ありがとう」
ぎゅっとあたしを、抱きしめた。
長い、長い
あたしたちはついに、結ばれたのだった。
◎◎
『――で。子供の名前は決まっているのかニャン?』
熱い体温に包まれながら、一番暗い時間帯の夜空を見詰めていると、枕元でなにかがそう尋ねてきた。
狐に良く似て、狐ではない、そして稲荷でもない、もっと崇高な存在。
あたしは彼女に、こう答える。
もちろん、決まっていますとも。
『聞かせてほしいワン。それ、どんな名前なのかしら?』
……それは、世の中を照らす輝きのような名前。
「この子の、あたしたちの、すべてのひとの未来が、晴れわたる明日のような希望にあふれていることを願って――」
そう願って、あたしはこう名付けるのだ。
愛しい子よ。
あなたの名前は――
『――うふふ。ええ、それは、とっても素敵な名前だわ!』
そう、これは素敵な名前なのだ。
神さまがそういうのだから――間違いない!
だから、ねえ?
「その
いま、ながい夜が明ける――
晴れわたる明日のように ~ネオ平安ロマンシア~ 完
晴れわたる明日のように ~ネオ平安ロマンシア~ 雪車町地蔵@カクヨムコン9特別賞受賞 @aoi-ringo
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