第四章 平安歌詠み合戦

11 ~不穏な幕開け~

 ある朝のこと。


 まだ夜が明けるまえ、もっとも闇が濃くなる時間帯。

 いつもより早く目を覚まして、すっかり慣れてしまった平安のタイムスケジュールに従い、ストレッチでもしようかと(従っていない)屋敷の庭に出たときのことだった。

 肌寒い大気と、しんと静まり返った闇の中に、微かな囁き声が風に乗って届いてきた。

 なんとなく気になって、そっと声が聞こえてきほうへと顔を出す。

 すると、普段と変わらない白い水干袴を着た、保名さんの後ろ姿がそこにあった。


「あ、おはよう――」


 おはようございます――と、そう声をかけようとして、寸前で思いとどまったのは、彼の目の前に、みしらぬ人物がいたからだ。

 背の低い男性で、服装は都の庶民と同じ、すねで裾をしぼったくくり袴と直垂ひたたれ。それに、くしゃりとたわんだ烏帽子、萎烏帽子なええぼしを頭に載せていた。

 顔つきは、どことなく鼻先が長くて、気弱な子犬に近い印象がある。

 そのちいさな男性が、しきりに平伏した様子で保名さんになにかを訴えかけて、そうして書状のようなものを、手渡した。

 保名さんは、思案するような表情でそれを受けとり、それから


「では、八咫姫やたのひめによろしくお伝えください。それから、こちらを」


 そう言って、書状を袖の中に収めつつ、代わりになにかを――


 ――かんざし?――を


 その人物へと、可憐な花でも愛でるような、とても丁寧で、繊細な手つきで差し出したのだった。


「どうか、くれぐれも正確にお伝えください。『その黒髪に似合うように』と。口説歌くぜちうたへの返歌は、そのときに受け取るつもりです、と。そう、お伝えください」

「はっ。しかと、賜りました。では、早速――」


 早口にそう告げて、その犬に似た誰かは、都の暗がりへと走って消えていった。

 あとにはただ、ぼうっと空を見上げる保名さんが残るばかりで。


「さて――次はどう、恋歌こいうたうたったものか……」


 そんな呟きが、闇に融けるように響くばかりだった。

 あたしは。


「…………っ」


 なぜだか、とても胸が苦しくなって、いたたまれなくなって、その場から逃げ出してしまう。

 おかしな意図があったわけではないのに、まるで盗み聞きしてしまったような心持で。ただただ、それが後ろめたくって。

 恐ろしくて。

 あたしは、逃げ出してしまったのだ。

 だからそのあとの、


「私も、運命とやらにケリをつけなければならない――」


 という彼の言葉の意味は、ずっと、ずっと解らないままだった。

 ただ――裏切られたのだと。


 ――そんな言葉が、脳裏をいつまでも、いつまでもいっぱいに、占有しているだけだった。

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