09 ~数秘の極と、こころの声~
◎◎
夜を待って、あたしたちは再び菅原亭へと集まっていた。
途綱さんの屋敷の庭はよく整えられていて、あちらこちらから秋の虫の声が聞こえてくる。
その中を歩き回りながら、保名さんと在雅さんが、なにかの準備を整えている。
特にすることも、できることもないあたしは、途綱さんと縁に座って、ほろほろとお酒を嗜んでいた。
……うん、だいぶ平安に馴染んで来たな、あたし。
「母はな、この
既に随分とアルコールを口に入れたらしい彼が、それでも手元の巻物になにかを書き付けながら、ポツリポツリと口にしていく。
それは途綱さんの母親の半生であり、同時に彼のこれまでの人生でもあった。
「海の向こうが好きだった。自分のことも、父のことも顧みず、ただただ享楽のために唐の品々を集めた。……この部屋にある壺や、掛け軸も、ほとんどそのようなものさ。自分も、それに毒されて、このようにギヤマン」
「ギヤマン」
「この眼鏡のことだ。眼鏡というのだ、ものを大きく見ることができる」
「知ってます。知らないほうがどうかしてます。それよりこの香り、どうにかならないんですか?」
「君は、不思議なひとだなぁ……」
なにか感じいったように彼は頷いていたけれど、それがなんなのか、あたしにはさっぱり解らなかった。
「
くんくんと鼻をうごめかす途綱さん。
セクハラを受けている気分のあたし。
匂いはあれだろう、温泉の香りと、保名さんにシャンプーの代わりにと渡された、米のとぎ汁の匂い……まったく、辟易としちゃう文明レベルだ……
「それだ。それも不思議なんだ、自分は」
「は? とぎ汁が?」
「いや、それは姫君の多くが黒髪を艶やかに見せるため、そうしているが……きみは、やすやすと彼らの名を呼ぶ。源在雅さま、それに陰陽博士――保名どの。都の人間は、自らの名を呼ばれることをことのほか嫌うのに、だ」
……え?
「この都を治めているのは帝だが、実質牛耳っているのは藤原氏だ。そうして藤原氏は宮中に無数にいる。だから皆、呼び分けが必要になる。だが名前を呼べば、それは相手におのれの本身を握られたことになろう。算道で言えば、解法を知られてしまったようなものだ」
だから、名を呼ばれることを嫌う。
「代わりに役職や住まいの場所で、ひとを呼ぶ。自分なら算博士。源在雅さまなら検非違使の佐という具合だ。しかし、君は――許されている」
「名前で呼ぶことを?」
「名で呼ぶのはごく親しいものだけだ。よほど、昼に聴かなかったきみの出自が、身分が尊い方なのか、それとも――ああ、聴かなくってよかった! 聞いていたら今頃、計算が進まなくなっていたところだ!」
本当に嫌だったような顔で、両手をこすり合わせて身震いする途綱さん。
ただ彼の言葉に、あたしは思うところがあって。
思いもよらないなにかが、胸の中で芽吹くような、不思議な感覚を覚えて。
「特にあの陰陽博士は君に――いや、うむ。横道にそれたか。母はな、伽羅の匂いが好きだったのだ」
――話の道筋が戻るのと同時に、その思いは霧散して、捉え所のないものになってしまった。
見えなくなってしまった想い。
だけれどそれは、もやもやと心の片隅に蟠って、あたしをひどく、奇妙な気分にさせた。心がそわそわとざわめいて、なんだか不安になってしまうのだった。
「あのひとはこの国が嫌いで、そとの国が好きだった。それは、道真さまが、不当に扱われたからだ」
道真公――菅原道真。
この京の都を祟ったとされる、悪霊。
でも、それは。
「そうだ。道真さまには才がありすぎた。上り詰め、帝に見いだされ――そして、それを疎むものがあまりに多かった。かの才覚が、彼を死に至らしめたのだ。自分の、母のように」
悲壮な色が、彼の顔に浮かぶ。
これと決めた人間の持つ、どうしようもなく追いつめられた表情。いまにも千切れてしまいそうな張りつめた顔。
あたしは過去に、そんな顔を見たことがあった。
会社で、辞表を出す前の、あるいは、首を括りそうな人間のする、それは責任を取るための顔で――
「自分はそれを受け継いだ。自分には、他にない才がある。ひととは違うことができる。そうだ、この通り、ほら」
道綱さんの手がはしる。
算木が弾かれ、そこから導き出されたものが、巻物の上に、幾つもの漢数字が、記号が、舞い踊る筆によって描き出される。
拾九 五 二拾二 二拾四
二拾七 拾 拾一
七 八 一 二拾八 三拾
六 二拾三 拾五
三拾五 三 一
それは、傍目には意味不明な、文字の羅列。漢数字の羅列。
でも、その一文字一文字が、数字の一つ一つが書きこまれるたび、屋敷を包む空気が激変していく。
虫の合唱が、怯えたように静まり返る。
月が欠ける。
夜が深まる。
ひゅるり、ひゅる、ひゅるる……
響き渡るのは、美しく、なによりももの哀しさが込められた、笛の音色。
拾八 拾四 三拾三 拾七
拾九 五 二拾二 二拾四
二拾六 二拾七 拾 拾一
七 八 一 二拾八 三拾
六 二拾三 拾五
三拾五 三 二 一
玄妙な音に招き寄せられたように、それは暗がりから浮かび出る。
――十二単。
煌びやかな、幾つもの重ねられた色合いが、夜のなかであっても輝くような、金糸に銀糸、
踊る。
夜の闇の中で、それは踊る。
「保名!」
声を上げたのは、誰だったのか。
誰が、彼の名を呼んでいたのか。
保名さんが、懐から取り出した札を天へと掲げて、口元にあてた右手の指先に、なにかを囁きかけようとした、そのときだった。
「――を」
吠える。
「――を――な」
「邪魔を――するなあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
はじける。
激昂した道綱さんの手の内で、算木の
そのすべてが、保名さんへと襲い掛かる!
「保名!」
躍り出た在雅さまの腰から刃が引き抜かれ、球のほとんどを叩き落とす――落とせなかったものの幾らかが、保名さんを庇った彼の身体にめり込む。
「くっ!」
膝をつく、在雅さん。その背後で険しい表情を浮かべ、左手を引き絞って、札を投擲しようとする保名さん。
だけれど遅い。
その間にも、算道博士の手は走り、筆は踊り、漢数字が増える。
そして、なにか、なにか凄まじく
「解らん。解らんよ、母が何を思ってこの衣を着たかなど! だから、聴くのだ! 自分は訊くのだ! この死命逆転数秘術図を完成させて――母を黄泉返らせて!」
拾八 拾四 拾六 三拾三 拾七 拾三
拾九 五 二拾一 二拾二 二拾 二拾四
二拾五 二拾六 二拾七 拾 拾一 拾二
七 八 一 二拾八 二拾九 三拾
六 二拾三 四 拾五 三拾二 三拾一
三拾六 三拾五 三拾四 三 二 一
――違う。
駄目だ。
そうじゃない。
それじゃあ、間違いだから――!
「保名さん!」
叫ぶ。
通じるわけがない声。一つとして足りていない言葉。
だけれど彼は。
保名さんはそれをくみ取って。
「っ」
あたしは〝それ〟を懐から取り出して、即座にアプリを起動した。
スマートホン。
起動したのは――電卓!
18+14+16+33+17+13
+ + + + + +
19+5+21+22+20+24
+ + + + + +
25+26+27+10+11+12
+ + + + + +
7+ 8+(?)+28+29+30
+ + + + + +
6+ 23+4+15+32+31
+ + + + + +
36+35+34+3 +2 +1
電子製品が可能にする光速の演算――その結果が暴き出した数字は――!
「九!」
「
保名さんの左手から、札が飛翔した。それは青い燐光を帯びて闇夜を貫き、そして途綱さんのその手に握られた巻物へと到達し――
拾八 拾四 拾六 三拾三 拾七 拾三
拾九 五 二拾一 二拾二 二拾 二拾四
二拾五 二拾六 二拾七 拾 拾一 拾二
七 八 九 二拾八 二拾九 三拾
六 二拾三 四 拾五 三拾二 三拾一
三拾六 三拾五 三拾四 三 二 一
書き換えられたのは、〝九〟の一字。
完成したのは――あらゆる列、あらゆる行の合計が同じになる、現代数学の到達点、秘奥のひとつにして極み――数的魔方陣だった。
「「「――――」」」
あたしが、在雅さんが、途綱さんが、息をのむ。
巻物がふわりと空中に舞いあがり、そして光となって、踊り舞う十二単へと吸い込まれていく。
ひらりひらりと舞う十二単に、肉が生まれる。
その中身が充足される。
見えたのは、どこか途綱さんに似た、線の細い女性の姿だった。
『――無い――』
『――
『――
『――最早、
消える。
肉が、光となって天へと昇って行く。
ぱさりと、音を立てて、ひとりでに舞う十二単は、地に落ちた。
あとにはただ、糸が切れた人形のように座り込み、声もなく空中を見つめ、涙を零す数学者の姿が、そこにあるだけだった。
◎◎
電卓のディスプレイに示された数は――111。
百拾一。
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