07 ~事件は屋敷で起きている~

◎◎



「保名、今日は頼みがあってきた」


 在雅さん――検非違使と呼ばれる、現代でいう警察機構の長という地位にある、保名さんの友人。

 そして、飢えた人たちが飛び掛かられたとき助けてくれた彼、みなもとの在雅ありまささんが尋ねてきたのは、さらに数日後の、お昼ぐらいのことだった。

 そのとき丁度、あたしは保名さんが作った、やっぱりおいしくない食事を口にしながら(それでも贅沢品だ)色々と平安京について、彼から話を聞いているところだった。


「すまん。火急の用向きなんでな、勝手に入ったぞ」


 庭に面した裏口から、ぬっとその大柄な姿を現した彼は、身分にそぐわない実直な態度で頭を下げて見せる。

 保名さんは、いつものあるかなしかの笑みを浮かべて、


「どうした在雅。随分と今日は大人しいじゃないか」


 と、初めて会ったときとは驚くほどに違う、砕けた態度で応じてみせた。

 在雅さんが頭をあげる。

 その表情は、あまり知らないあたしが見ても、弱り果てていることが明らかな顔つきで。


「実は、弱ったことになった」


 案の定、彼はそう言ったのだった。



◎◎



 みかどの治める京の都、その中枢たる宮中の、勉学を学ぶ大学寮に、菅原すがわらの途綱みちつなという男がいた。

 この男、はなはだ算道(いまでいう数学だ)を得意とし、学生にものを教える博士の立場にあった。

 正一位から始まり従一位、正二位、従二位……従八位、大初位、少初位と続く官位において、彼は決して上位の立場ではなく、従六位のもう一つ下――従六位下という位が与えられていた。

 俗に殿上人と呼ばれ、帝のおわします清涼殿せいりょうでん殿上てんじょうに昇殿できるものは、通常五位以上の官位を有する者だけなので、つまり彼は、殿上人ではなかった。昇殿するから殿上人なのである。

 ……というのは、保名さんの受け売りなので正確なところは解らないのだけれど。

 さて、その彼の邸宅で、この数日不可思議なことが起きる、というのである。

 ちょうどその日は、下弦の月が空に浮かぶ夜だったらしい。

 途綱が、夜中、己が血道をあげ今日まで磨き上げてきた算道の秘奥を巻物にしたためていると、ふいに催すものを覚え、厠へとたった。

 ギシ、ギシと軋む板張りを歩きながら外を見上げると、三日月が冷たい光を降らしている。

 先程まで打ち込んでいた学問の疲れもどこへやら、その美しさにしばし見惚れていると、どこからともなく笛の音が響いてきた。

 横笛の音――竜笛りゅうてきだった。

 ひゅるり、ゆるゆると響く、みごとな、だが、どこか怪しさすら覚える笛の音色。

 大気が粟立ち、背筋がぞくりと震える。

 何事かと途綱が身構えたとき、それが舞った。


 十二単じゅうにひとえが、宙を舞っていたというのである


 それは途綱の家に古くから伝わる家宝の一つであった。

 それが、夜空に躍り出たというのだ。

 ひらり、ひら、ひら。

 ふらり、ゆら、ゆら。

 妖艶なる竜笛の音色に合わせ、十二単が舞いを踊る。

 そのあまりに面妖な光景を見て、


「あなや」


 途綱は一声あげると、そのまま昏倒してしまったらしい。

 翌朝、下男に見つけられた起こされた彼が、慌てて書斎に駆け戻ると、算術の秘奥をまとめた巻物が一本、姿を消していたのだというのだ。

 そんなことが、毎夜続いたという。



◎◎



「厄介なのは途綱どのの立場でなぁ……」


 在雅さんは、首筋に手を当てながら苦々しい顔で言った。


「知っての通り、菅原といえば道真みちざねこうよ。いまでこそ大人しくなってはいるが、彼の怨霊が宮中に為した祟りは、あまりに大きい。一度など、ほれ、稲妻が落ちたこともあったではないか。それを誰も忘れられんのさ、まったくな」

「その途綱、というひとは、菅原道真の係累なんですか?」


 あたしが解らないなりに口を挟むと、在雅さんは頷いて、


「係累も係累。直系の方なのだよ。だから、いろいろと――拙いのだ」


 そう、言った。

 菅原道真といえば、いくらあたしでも知っている。

 学問の神様で、一般的には天神様。

 京都から左遷されて福岡の大宰府に送られて、そのまま嘆き悲しんで死んだ人だ。

 死んだあとは左遷した上司たちを呪って、この都を祟ったらしいけれど、神さまとして祀ったことで治まったと、なんかそんなことお婆ちゃんから聞いたことがある。

 そんな神話のような人物の、孫だか曾孫だか知らないけれどが、いま大変な目に遭っているらしい。

 そりゃあ、扱いにも困るだろう。


「うん、信田姫は博識だ。だけれど事態は、もう少し複雑だよ」


 保名さんがポツリと口を開き、そうなのだと在雅さんは頭を抱えた。


「途綱どのはこれで官位を持つ御仁。何かあれば放置するわけにもいかない。が、道真公の直系となれば、藤原氏は動くことが出来ない。元をただせば道真公を大宰府に送ったのは藤原の――いや、とかく、ということだ。助けても類が及び、見捨てればまた道真公が荒ぶるやもしれん。上はそれを気に揉んでいてな、そうして道真公が相手では陰陽寮のものも腰が重い」

「そこで、この保名の名が挙がったと、そういうわけですか」


 彼が皮肉気にそう言うと、在雅さんは似合わない弱り切った表情を見せ、


「どこの家の息がかかっているわけでもない、政治的に利用されることもない、それでいてこれだけのことをどうにかできる陰陽師など、おまえ以外の誰がいる」

「……いるでしょう、陰陽頭が」

「ねーよ。あの方は帝のお気に入りだ。余計に出来んわ」


 たはーと、ため息を吐いた。


「なあ、保名。なんとか引き受けてはくれんか? 俺の対面というものもある」

「ふむ」

「保名」

「信田姫を連れて行っても?」

「もちろん」


 ……え?

 ちょっと待っ――


「ならば、そういうことで」

「いくか」

「いきましょう」

「ゆこう」

「ゆこう」


 …………。

 そういうことになった。

 なって、しまった。



◎◎



「ああ、そうそう、信田姫」

「はい? なんです保名さん?」

「その姿、私たち以外には幾らなんでも悪目立ちします。用意しますから、十二単なり、庶民の着る小袖なりにお着替えください。着付けが出来るものは用意しますから」

「…………」

「お着替えください」

「……はい」


 そういうことに、なったのだった。

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