26 ~終焉開始――おわりをはじめる~

◎◎



 あたしへと迫る白刃。

 それを、一歩踏み出した大柄な背中が、気勢をあげてさえぎる。


「させるかよ!」


 抜き放たれた在雅さんの太刀が、悪右衛門の刀を迎え撃つ。

 金属が金属を食む甲高い音。

 数合の打ち合いに、つば競り合い。体格では在雅さんが、悪右衛門に確実に勝っている。

 なのに。


「どけぇ、検非違使風情がぁああああ!」

「ぐ、ぬぅ!?」


 狂人は、たやすく大柄な在雅さんを吹き飛ばす。

 たたらを踏んで、床に手を突き、なんとかこらえる在雅さんに、追撃の刃が迫るッ。


 ギィィン!


 今度の音は、より高い。

 悪右衛門の刃を、保名さんの札が受け止めていたのだ。

 それは在雅さんを庇った形だったけれど、しかし、保名さんもまた、堪えきれず弾かれたように飛び退すさることになった。

 隣り合う位置まで下がった保名さんが、在雅さんとアイコンタクト。

 お互いが頷き合い、同時にスタートを切る。


「せやぁ!!」

ィッ!!」


 右からは在雅さんの太刀が迅雷の速度で、左からは保名さんの札が飛燕の速度で悪右衛門に迫る。

 まったくの同時、阿吽あうんの呼吸で放たれた一撃――双撃を、しかし悪右衛門は回転の動作で放つ刃の、そのただ一振りで払いのけてみせる!

 もののふと陰陽師をふたりも向こうに回して、なおも一歩も譲らない信念が、狂気が悪右衛門にはあった。

 保名さんが、問う。


「悪右衛門! なにゆえ、信田姫を狙うか!」

「知れた、ことよ!」


 投擲された三枚の札を、一動作で切り落としながら、悪右衛門が答える。


「おれの妻を、愛するおんなを、その病を除き、不老不死にするため! それ以外に、なにがあるか!」

「おまえ、ありゃあ、俺にもわかる。もうおまえの細君は、生きちゃいねーぞ!」

「はっ!」


 足元を薙ぐ在雅さんの太刀を、たやすく片手で弾きながら、狂人は指摘を一笑に付する。



 どうしようもない答えに、保名さんたちの動きが止まった。

 悪右衛門も、追撃をかけるでもなく、ただ醜く笑う。


「道満の兄者がおれを利用していることも、我が妻が既に死者たることも、知らぬわけがなかろうが。おれは、摂津の守、石川悪右衛門ぞ?」


 なら。

 どうして。


「どうして、あたしの命を、狙うんですか」


 その問いかけに、悪右衛門は表情を消した。

 正気の失せた、だけれど狂的な意志で練り上げられた恐ろしく強固な、救いようのない炎が灯る瞳が、あたしをジッと見詰めていた。


「……兄者は言ったのだ。信田葛葉を手に入れ、その生き胆を妻に捧げれば、あやつを不滅の存在にすると。そう、いってくれた」

「でも! それは!」

「知っておるわ、女狐が。この世にはどうにもならぬこともある。だがなあ、おれが妻にしてやれることなど、あのとき、怒りに任せそこの三流陰陽師の親父を切り捨てたときに選ぶことが出来たものなど、歯噛みするほどにこの程度よ。おれはなぁ――」




 ――妻と永遠に添い遂げる。




「ただ、それだけが望みなのだ。故に――」


 そのときの、彼の表情はあまりに酷かった。

 擦り切れた感情と、磨滅した心が、寂寞せきばくを叫んでいるような。

 手にしたものがすべて、砂となってこぼれ落ちていくときの、そんな思いそのもののような、あまりにあんまりな表情は、それはどこまでも哀し過ぎて。



 だから、誰も動けなかった。


「信田葛葉――きさまはおれのものだ!」


 その狂った笑顔。

 狂気の行動に対しては。


「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」


 叫び、悪右衛門が走る。

 保名さんたちが迎撃するが、それは一拍遅い。

 在雅さんの刀が悪右衛門の右肩を切り裂き。

 保名さんの札が、悪右衛門の脇腹を貫いても。


 ――それでもまったく、それは決定打にはなり得なかった。


 悪右衛門の太刀が踊り、拳が疾駆し、保名さんたちは叩き伏せられる。意識を刈り取られる。

 まっすぐに。

 ひたすら真っ直ぐに。

 悪右衛門はあたしへと迫り。


「な、ならんぞ! 自分が、姫を――」

「うるさい」

「ぎゃん!?」


 なけなしの勇気を振り絞ったのか、それまで部屋の隅で震えていた途綱さんがあたしを庇うように前に出てくれたけれど、情けない悲鳴を上げて殴り飛ばされるだけだった。


 そうして、悪右衛門が、あたしの眼前へと立つ。

 血塗れの、傷だらけの狂人は、晴れやかに笑う。


「やっと、届いたぞ」


 その太い腕が、芋虫のような指が、あたしの頬を撫で。

 そして、あたしの首を、乱雑に掴んだ。

 痛み、苦しみ。

 あたしは呻く。

 悪右衛門は笑う。


「苦しめ、苦しめ信田葛葉。存分に苦しんで、そしておれのものになれ! はっ、ははは! 怖いか、目に涙が浮かんでおるぞ?」


 べろりと、奴の舌があたしの眼元を舐めとった。

 生理的嫌悪感に肌が粟立つ。

 それでも。


「あなたなんて、怖くない」


 あたしは、目の前の男を睨んで、そう言った。


「ほう……?」


 奴が笑う。

 当たり前だ。

 だって、あたしはこんなにも震えている。

 眼の前の人物が、石川悪右衛門が怖くって、恐ろしくって怯えて震えている。怖がっていることは、奴には文字通り手に取るようにわかっているはずだ。

 ああ、身体が思うように動かない。

 石にでもなってしまったかのように、手足がすくんで動かない。

 怖い、怖い、怖い。

 でも。


「あたしは、あなたなんて怖くない。だって!」

「ぬぅ……」


 悪右衛門が顔をしかめた。

 あたしの首を締め上げる彼の右手に、深々とは刺さっていた。


「保名さんは、誓ってくれたんです! あたしを、守るって!」


 それは、かんざしだった。

 今日贈られたばかりの、だけれど大切なかんざし。

 あたしはそれを、悪右衛門の腕に突き立てていた。

 ありったけの勇気を総動員し、眼前の狂人へと否を突き付ける!


「あたしは、負けない! あなたのものにも、ならない!」

「く、くくくく! 女狐め、おれをたぶらかすか? ああ、嗚呼その眼は、その強い眼差しは、本当に、あの頃の妻に似て――」


 おかしそうに、たのしそうに彼は笑って。そして。


「ならば、いまこの場で腹を掻っ捌かれるがいい!」


 その眼を爛々と燃やし――その炎には、どこかで見覚えがあった――悪右衛門は刃を振り上げる。


「葛葉!!!!!!」


 立ち直った保名さんがあたしの名を叫び、必死の形相で駆け寄ろうとする。

 でも。

 だけれど。

 それよりもずっと、悪右衛門の一撃は速くて。


「これで――終わりよぅ!!」







 ぞぶり。











 肉が抉られる音が、奥の間に響き渡った。

































 悪右衛門の、心臓が抉られる音が。






「――?」


 彼の、狂った眼が、自分の胸元へと視線を落とす。

 そこには、血に塗れたなにかが生えている。

 鮮血の花が咲き、それが抜き取られる。

 悪右衛門が崩れ落ちる。

 あたしは解放される。


「あ、な、なんで、あに、じゃ……」


 悪右衛門のいまにも息絶えそうな呟き。

 あたしは、咳き込みながら視線をあげて――そして見た。


「なんでもなにも――信田葛葉を殺されては、儂が困るからじゃよ、愚か者めが」


 ニタニタと笑う、しわくちゃの肌の老人。

 薄汚れたボロボロの、よもぎ色をした水干をまとい、髪は乱れるままの蓬髪ほうはつ

 血に塗れたおのれの指を、血の色以上に奇妙に赤い舌で舐めとりながら、そいつは。


「まあ、今日こんにちまでご苦労であった。必要なものをすべてここに集めるという役目、貴様は見事はたしてくれたからのう。褒美として、いずれ貴様も、貴様の妻と同様の肉塊として飼ってやろう。くっくっ……なぁに、死など、ぞんがいに大したものではないでな。あ、いや……そうじゃった」


 思い出したように言葉を切り。

 そしてその老人は、わらった。


「あの肉塊――。まあ、文句は無かろうな、悪右衛門?」

「――――」


 悪右衛門の眼から、光が消える。

 生きている意味の喪失が、彼の狂気すら奪い取ったのだ。

 嗤ったまま悪右衛門のなきがらに顔を近づけ、彼の死を確認して、その男は。

 その老人は、両手を広げ、すべてを喰らうかのように口元を吊り上げ。

 悪魔のような笑みを浮かべて宣言した。


「おお! いまこそすべてが揃った。天よ、覚悟するがいい。世の運命、そのすべては!」





 ――この、蘆屋あしや道満どうまんが、支配するのだから。





 我欲の陰陽師が、天よ割れよとばかりに、哄笑をあげる――

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