晴れわたる明日のように ~ネオ平安ロマンシア~
雪車町地蔵@カクヨムコン9特別賞受賞
序章 現世からのFLY AWAY
00 ~コイに落ちるその瞬間~
ひとが、恋に落ちる瞬間は、たぶんたくさん見てきた。
指先が触れあうようなささやかなことで。
密室になってしまった夜の暗闇のなか、不安を絡めるとき。
もっと過激な、ずっと密度の高いふれあいのなかで。
ひとが、恋に落ちる瞬間は、たくさん見てきた。
だけれど――
「故意に落とされる瞬間なんて――見てきたことはないッ!!!」
断言する。
絶叫する。
だけれどすべては遠く、高速で遠くなる夜空へと消えていく。
どうして。
どうしてこんなことになったんだろう……?
万華鏡のように。
走馬灯のように。
走馬灯として、思い返す。
◎◎
妻帯者で、お子さんが今年小学校に上がって、少しナーバスな眼鏡の壮年。
普段一緒に仕事をしているうえでは、少し口うるさいだけの、良くできた上司。
もし彼に、ただ一点、難があるとするなら、杓子定規とはいわないまでも、規則にうるさく、また規律に反することを疎んだことだろう。
同期の
とにかく、逸脱が許せない。
それが小林係長の、自他ともに認める評価だった。
少なくとも、女子社員一同は、そう思っていたはずなのだけれど……
「こんな……こんなことは……っ……よくないん、だ」
「そんなこと言って。誘ってきたのはあなたじゃない」
深夜のオフィスにひびく、途切れ途切れの嬌声と、自制の声。
あたしのデスクの上で、ふたつの影が絡み合っている。
ひとつは同僚。
入社以来、何度も男をたらしこんできた彼女が、スカートをめくりあげられて身悶える。その口元には、あでやかな笑みが咲いていた。
もうひとつの影。
問題は、そちらだった。
小林係長が、彼女の上に覆いかぶさり、鼻息荒くむさぼっているのであった。
電灯が落ち、暗がりゆえに見えないが、その瞳は気持ち血走って、赤く見える。勤勉実直、絵に描いたような石頭が、えらく退廃的に興奮しているのだ。
いうまでもなく、彼女たちは付き合っているわけではない。
一颯は結婚など考える人種ではないし、係長に至っては奥さんもお子さんもいる。
つまり、それは。
ワンナイトラブ。
どう見ても、どう考えても、不倫の、その、一部始終をあたしは目撃してしまっているのだった。
どーしてこうなったかなぁ……。
思わずドアの取っ手を掴んだまま、頭を抱えそうになる。
自分で言うのもなんだが、あたしはごく一般的な、どこにでもいるOLにすぎない。
いままでの人生に起伏らしい起伏は無かったし、なにごとも無難にこなしてきた。
小さい頃から伸ばしている黒髪に少々の自信を持っている程度で、本当にほかは、並一辺倒の人生だったのだ。
なのに、どうしてかこんなことになってしまっている。
なにが悪かったのだろう?
明日までに準備が必要な書類を会社に忘れて、それを取りに戻ったまではよかったはずだ。
問題は、まさか二人がそんな関係で、しかもよりにもよって、あたしのデスクの上で情事を繰り広げていたことだった。
なんというか、非常に心が萎える。
どれが悪かったと、考えることすら
「一颯……かずさっ」
「うふ、ふふ……」
そんな、関係ないところで凹んでいるあたしには気が付くことなく、ふたりはお互いを求めあっている。
……とにかく、いまは出直したほうがいい。
それまでは、入り口の扉をすこし開けたままの姿勢で硬直し、呆けたようにその光景を見詰めていたあたしだったけれど、さすがに我にかえるといたたまれなくなって、見なかったことにしようと踵を返した。
ほんのすこし、足をひいた。
その、刹那だった。
ギィ……っと、ドアが、最悪のタイミングで、油の切れたような音を立てた。
「――誰だ!?」
振り返り、係長が叫ぶ。
まずい!
あたしは咄嗟に、その場から逃げ出しにかかった。
「追いかけて!」は、たぶん一颯の言葉。でも、そのあとの獣のような咆哮は、いったいなんだったのか、わからない。
あたしは逃げた。
背後からは、すさまじい破壊音とともに、なにかが追いかけてくる。
そら恐ろしいほどの圧力、威圧、プレッシャー。
振り向くことも躊躇われるほどの脅威を感じて。あたしは逃げる。
つんのめるようにして、実際転がりながらも逃げるあたしの背後では、凄まじい騒音が鳴り響いていた。
窓の割れる音、ドアが蹴破られる音、机の
音、音、音、壊される――音。
同時に、なまぐさい息遣いを感じた。
獣の、けだものの吐息。
けたたましい足音に、追い立てるようあたしは逃げて、逃げて――
――気がついたら、会社の屋上にいて。
「シ――シノ――シノダァアアアアアア」
係長――だったものが叫ぶ。
それはもう、たぶん彼ではなかった。
みてくれは変らない。
着崩れたしわくちゃのワイシャツと、片一方だけ脱げた靴下。普段の彼からは想像できないだらしない恰好。けれど、まだ人間。
でも、その
その、
「シノダァアアア、クズハアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」
〝鬼〟が叫ぶ。
あたしはただ、呆然としていた。
眼の前の光景が理解できなくって、逆にスッと冷めてしまったように、淡々と事実だけを受け止めていた。
だから、そのあとの出来事も、よく、覚えている。
彼は、あたしに飛び掛かり、首を鷲づかみにして締め上げて、そしてそのまま、片手であたしを持ち上げて。
屋上のフェンスの向こうへと、ゴミでも捨てるような気軽さで、ぽいっと放り投げたのだ。
ひとが、恋に落ちる瞬間は何度も目にしてきた。
でも――故意に落とされる瞬間は、初めてだった。
瞼の裏を奔る走馬灯。
脳裏を踊る、
吹き付ける風に、自慢の黒髪が、ばさばさと乱れる。
対照的に、心中は落ち着いていた。
ああ、死ぬんだな、あたし。
そんなことを、漠然と考えて――
「――きれい」
最後の瞬間にひらいた瞳、見上げた夜空。
この眼に映ったのは、丸い、丸いお月様の、その優しい輝きだった。
――そうして、長い永い一瞬の末に、あたしは落下する。
ぽすんと。
ひどく軽い音を立てて。
「――え? え?」
理解できない時間は続く。
あたしの思考は凍りついたまま。
でも身体は無事で、立ちあがる。
そこは。
一面にススキの原っぱが広がる、見たこともない場所だった。
「Why?」
あまりのことに、母国語以外が出るあたしだった。
……状況を理解し、絶叫するのは、さらにその、三秒あとだった。
「何故にホワアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアイ!?!?」
かくしてあたしの、波瀾万丈なセカンドライフが、幕を開けたのだった。
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