第三章 菅原途綱亭事件

06 ~保名の屋敷はいい屋敷~

 いろいろあったあの日から、もう数日が経過していた。

 あたしは相変わらず保名さんの御屋敷に厄介になっていて、いまだに未来からきたことを打ち明けられずにいた。

 安穏と日々を送り、ただ彼の用意してくれる味気のない、それでも貴重な食料を浪費する。

 浪費という名の足手まとい。ただただ彼の財を削減し、減算するだけのあたし。

 だというのに。

 いつ投げ出されても不思議ではない境遇だったはずなのに、なぜだか保名さんは、とても優しくしてくれた。

 この時代が、大変な時代だということはよく解ったつもりだった。

 だからこそ、元の時代に戻りたいという思いも強かった。

 友達は、どうしているだろうか。

 父さんは、母さんは元気だろうか心配していないだろうか。

 会社は――小林係長には、なにがあったのだろうか。

 思うところはたくさんあって。

 それでも、出来ることは特になく、元より残念なおつむのあたしには、いまの一瞬を生きることが精いっぱいだった。

 そう、生きている。

 精いっぱい、全力で。

 なぜかって、それは。


 大変なりに、保名さんとの暮らしが、楽しくもあったから――



◎◎



 保名さんの屋敷は、とても特殊だ。

 この時代の貴族の屋敷というのがすべてそうなのか、それとも彼が陰陽師であることがそうさせているのか、例えば歴史の教科書で習う通り、この時代に水洗トイレなんてしろものはない。

 厳密には、退化して無くなっているとされる。

 でも、このお屋敷にはそれがある。

 トイレの天井あたりから紐が伸びていて、それをひくと水が流れるのだ。排泄物はそのまま、近所の肥溜めへと流れていく。


「私の師にあたるかたがですね、大変な変わり者でして、この水流運搬式かわやも、彼の発明なのです。見栄を張らずに実のところを言えば、この屋敷自体が彼の市井しせいにおける別宅でして、私はただの管理者に過ぎません。なので、信田姫をここに置いていることは、本当は内緒なんですよ?」


 ぱちりと茶目っ気たっぷりにウインクをされても、それはつまりあたし自身の肩身が狭いことを思い知るだけだった。

 いかに彼との暮らしが楽しかろうが、現代にどれだけ戻りたかろうが、まずは身の振り方、生きていく方法をあたしは考えなければならなかったからだ。

 さて、それはともかく、この屋敷の珍妙なところは他にもある。

 またも歴史の教科書からの受け売りで申し訳ないのだけれど、寝殿造りの建築物とは、この屋敷は異なっている。

 もうすこし、特殊なのだ。

 屋敷周囲の住まい、そのほとんどがホッタテ小屋同然なことを考えれば十分豪勢なのだけど、むしろ実用性のほうに向きがおかれていて、なにやらあちらこちらが奇妙につながっている。

 どこからでも、どの部屋にでもはいれるようになっているというか……ともかく不思議な作りで、その最たるものが、お風呂だった。


「信田姫が言うところの風呂――湯を大きなかめたらいのようなものに溜めてそこに入るという文化は、この国にはないものです。異国とつくにであれば、また違うでしょうが、京の都では、庶民は蒸し風呂に入り、貴族は身体を拭くことすら嫌がることが当然とされています」


 それは、身体を洗うことで、毛穴から邪気が流れ込んでくるという迷信によるものらしかった。


「迷信とは、心外ですね。卜占ぼくせんをよくし、星をよく視て、その日のよい方角、よい行いを知ってその通りに振る舞う。貴族とはそういうものであり、私たち陰陽師は、帝や殿上人の皆さまにそれを示すため、いるのです。陰陽寮とは、大きな占いの場所と言ってもいいでしょう。もちろん、たくさん書状なども書きますし、私の師のように帝の信にあつく、貴族の方々の頭痛の種を取り除くことのほうが多いものもいますがね」

「お悩み相談ね、それじゃあ。まるで便利屋じゃない」

「役職とは、常々そう言うものです」


 まあ、それは会社で働いていた一介の社員であるあたしも変わらないわけで。

 とにもかくにも、そういうわけで貴族の屋敷に、普通お風呂はない。

 ないはずだったのだけれど――


「あるのよねー、こんなの」


 かぽーん。

 という音が響いてきそうな湯煙。その奥に、池ほどもある大浴場が広がっている。夜空すら見える露天風呂だ。

 そんなものが

 さっき言った通り、どの部屋からでもここへとつながっているのだ。この部屋を中心に、屋敷が作られている。

 家の真ん中が開け、空が見え、湯気が立ち上る。

 保名さんの屋敷は、そんな奇妙奇天烈な作りをしていた。


「……陰陽師って、映画でしか知らないけど、ホントに魔法みたいなもの使えるんじゃないかしら?」


 露天風呂――そのなみなみと溢れかえりそうな水面にそっと足をつけながら、ポツリとつぶやく。

 保名さんが、魔法のような術を使ったところを、あたしはいまのところみていない。

 牛車が牛なしで走ったり、摂津――いまでいう大阪だ――から京都まで一晩のうちに横断してしまったり、それ以前に刀を札一枚で受け止めたりと、不可思議な事は起きているけれど、それはまだ、あたしの常識のなかでも帳尻が取れる、いわば現代人からすれば見飽きたものに過ぎなかった。

 しかし、このお風呂――温泉、といってもいい――に限っては、さすがに度肝を抜かれた。

 なにせ、途轍もなく


「あ~~~」


 肩までつかり、じんわりほどよいお湯の熱が、痺れるように全身に染み入って来ると、あたしは堪えきれず吐息を絞り出してしまった。

 気持ちいい。

 すごく気持ちいい。

 なんか、いろんな問題が、どーでもよくなるぐらい、心地好い。

 不思議のパワーがしみ込んでくる気分だ。


「…………」


 おだんごにまとめた髪を気にしながら、ぼけーッとだらしない顔で夜空を見上げる。

 星が、とてもきれいだった。

 高層ビル群の合間から見上げた大空も、そりゃあそこそこきれいだけれど、これは別格だ。

 心に染み入るような、生きているんだと実感できるような、そんな星空だった。


「……うん、あたしは、生きてる」


 そう、生きている。

 生きているなら。



「なにかを、しなくっちゃ――!」



 ざぱんと湯から立ち上がり、あたしは口にした。

 吹き抜ける夜気が、火照った体には心地好かった。

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