29 ~忘れられた微笑み、塩味の濃い昼食~
◎◎
信田葛葉。
身長157センチ、体重44キログラム(気が付いたら減っていた)。
小さなころから自慢の黒髪と、困ったことに規格よりずいぶん鋭いと評判の三白眼を除けば、ごく一般的な社会人OL。
――いや、まったくとりえがない、誇れるところのないただのOL。
うん、誇れるところはない。だけれど、、これでもあたしも女だから、浮いた話の一つや二つはあった。
あった。つまりは、過去形だ。
現状、あたしは誰にもまったく相手にされない。少なくとも、男性には相手にされない。
原因のひとつは、この生まれついての目付きの悪さ。
三白眼――悪くすれば四白眼とまで
そうして、それとは別に、もうひとつ。
あたしが社内でまったく、これっぽっちも男性に相手にされない理由がひとつある。
それは――あたしの口が悪いことだ。
歯に衣着せぬといえばまだ聞こえはいいけれど、あたしは、なんというか好き嫌いが激しいのである。
必死に頑張っているひとが好きだ。
逆に言えば、いまに甘んじる人間が嫌いだ。
もういいと、運命を
以前、もうずいぶん昔のことになるけれど……この会社に入りたてのころ、ひとりの御曹司との縁談が持ち上がったことがある。
正確には、
家同士が、勝手に決めた縁談だった。
その相手が、たまたま自分が入社した企業のお偉いさんの息子だったと、それだけの話だ。
彼は、諦めていた。
諦めて、そうしてそれでいいと、それがいいと満足していた。
あたしみたいなやつと結婚するという話を、結婚相手を探さなくてよいと喜んだ。
――それが、気に喰わなかった。
あたしはその縁談を蹴った。
滅茶苦茶にして、破談にまで追い込んだ。
その結果、彼のメンツは丸つぶれになり、そうして彼は、怒った。
あたしが嫌だと怒ったのならそれでよかったけれど、彼はこう言ったのだ。あまりに情けないことに、こんなことを言ったのだ。
『僕と結婚しないのはいい。でも、僕以外の男が君に寄りつくのは我慢ならない。僕が拒絶されて、なぜ君が受け入れられる!? ありえない。だから』
だから、二度と君に、男が寄りつけないようにしてやる。
そう、言ったのだ。
……結果として、彼の試みはうまくいった。
会社の男性はお偉いさんを恐れてあたしに声をかけることすら控えるようになったし(それこそ書類のプリント一枚、口頭では伝えられないほどに、だ)、社外でも徹底的にあたしは監視され、すべての行動は妨害された。
だから、結果としてからの思惑は成就したといっていい。
あたしに言い寄る男など
#noise#
微笑
#noise#
ひとりも、いなくなったのだから。
彼はそれを、運命だと呼んだ。あたしに、その、くだらない運命を強要した。
だから、あたしは運命という言葉が嫌いになった。
「え? だから信田さんって、クラシック聴かないの?」
社内の解放されているスペースでお手製のお弁当をつつきながら、同僚の
いや、違うのよ? あたしも、パッフェルベルのカノンと、ニュルンベルクのマイスタージンガーぐらいは聴くもの。
まあ……ベートーヴェンは、音楽性だけ好みじゃないけど。
「男の人たちにはそんなことがあったんだねー、女性陣はちっとも気が付かなかったよー」
彼女はのほほんとした顔でそう言うけれど、たぶん真っ先に感づいたのはその女性陣だった。
そうして、女性であれば何の問題もないから、男ではなく女性があたしを無視し真に孤立したならば、その御曹司はむしろ激怒するだろうと感づいたから、彼女たちは態度を改めなかったにすぎないのだ。
その点、女という生物は、ひどく嗅覚が鋭い。
「まあ、それはそれとして……どう? 一ヶ月近く会社休んでいたけど、もうだいぶ治った?」
慣れた、ではなく治ったと聞くあたり、この同僚も決して鈍くはないのだろう。
そう、あたしは一か月前、社内で倒れて意識不明になり、そのまま入院した。
目を覚まして、それからなんとか復帰は出来たものの、引き継ぎや多くの手続きを放置することになっていたあたしへの風当たりは強く、ある程度忍耐が必要なものだった。
まあ、それは仕方がないことでもある。
「というか。あたしがもし経営陣だったら、会社で倒れたうえに一ヶ月も休むような奴、即刻首にするわ」
そうしてそれをしないのは、たぶんあの御曹司の差し金なのである。
実に腹ただしいことだが、あたしが食いっぱぐれなかったのは彼のおかげと、そういうことになってしまうのだった。
記憶障害の女なんて、いい加減忘れてしまえばいいのに。
馬鹿な男だ。
「信田さんも大変だねー。あ、じゃあ元気が出るように、わたしのつくったコロッケ、ひとつあげるね!」
そう言って、真理子はあたしのお弁当箱のふたに、コロッケを置いてくれる。
「……ありがとう。うれしい」
素直にお礼を言い、コロッケを頬張る。
とても美味しいコロッケ。
だけれどそれは。
何故だか妙に、味が濃い気がするのだった。
「病院食に、なれちゃったのかな……?」
あたしは、ただ首を傾げることしかできない――
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