30 ~魔手、ふたたび~
◎◎
……人生がつまらないなんてことを、あたしは初めて思った。
まるで楽しい夢から覚めた直後のように、なにもかもが味気ない。
おかしい。
なにかがおかしい。
病院で目覚めてから、いや、それ以前から、あの夜から。
なにかが、奇妙だ。
あたしは、会社で倒れた。
でも、その理由は?
そもそも、どうして夜の会社になんて出向いた?
なんのために。
それは、それは確か――
「……っ」
思い出そうとすると、頭が痛む。
痛むだけならともかく、ひどくうるさくなる。
何万匹もの羽虫が、頭蓋のなかにぎゅうぎゅうに押し込まれたような、すし詰めの羽虫たちが、一斉に脳みそに
なにかが、あったんだ。
あの夜、会社に行って、あたしは、なにかを体験した。
その結果、なにかが歪んだ。
間違いない。
だって――
いまこの会社には、あたしの知る係長と、ひとりの同僚の姿は、ないのだから。
小林
そして、足谷一颯。
あたしは、そのふたりのことを知っている、覚えている。同じ会社で、同じように働いていたことを、覚えている。
神経質は係長、男を籠絡することが趣味の同僚。
覚えている。
だけれど――思い出せない。
それ以上のことを、思いだせない。同時に、彼らの存在を、あたし以外の誰もが覚えていない。
真理子も、知らないという。
「……いったい、どうなっているのよ」
あたりさわりのない仕事を任され、それを終えての帰宅中、小腹がすいたので立ち寄ったハンバーガーショップで、あたしは頭を抱えていた。
目の前には、包装紙に包まれたチーズバーガーが、ゆっくりと熱を失いながら存在している。
包装紙には、このチェーン店のロゴマークである子犬がプリントされ、笑っている。ローテリア。そんな名前のハンバーガーショップだ。
窓際の席で頭を抱えているあたしを、通り過ぎる人々が、ときおり珍しいものを見るような目つきでちらりと視線を向け、そうしてすぐに興味を失って立ち去って行く。
それは、なんだか映画や小説のワンシーンを切り出したようでもあった。
……わからない。
疑心暗鬼で、なにもかもが疑わしく見えてくる。
知っている人物の不在と、つじつまの合わない記憶。
周囲が意図的にあたしを
倒れた時に、頭でも打ったのかもしれない。
それで、記憶が混雑して。
「あーあ、これが、ドッキリかなんかだったらいいのに」
そうだ、ドッキリなら――
これが何かの――そう、ドッキリじゃないかって
「っ」
まただ、またなにかがフラッシュバックする。
知らないことが、覚えていないことが、頭の中でよみがえろうとして。それを必死に手繰り寄せようとすると、するりと腕の中から逃げて行ってしまう。
包装紙の子犬が笑う。
その幻覚とともに、頭の中の大切ななにかが薄まり、消えて行こうとする。
いやだ、だめだ。
これは、忘れていい記憶じゃないのだから――
「――え?」
もどかしさに気が狂いそうになりながら、それでもなんとか記憶の糸を辿ろうと頑張っていると、見知った人影が、窓の外をよぎった。
「――――」
迷わなかった。
あたしは、迷いはしなかった。
弾かれたように立ち上がる。
勢いのまま、ローテリアを飛び出す。
ハンバーガーには、結局手も付けなかった。
あたしは、その人影を追いかけた――
◎◎
セミロングのソバージュが、夜のネオンサインに染められて、揺れる。
ネオンサインとはいっても、実状はLEDライトだ。だけれど、その強い光でも照らし出せないほど、その人物がまとう闇は深い。
あたしは、必死にその後を追う。
普段ならハイヒールだから、追いつけなかっただろう。
でも、何故だかあたしはニューバランスのランニングシューズを携帯していた。
病院で目覚めた日から、必要になる気がずっとしていたからだ。
走る。
雑踏を掻き分け、夜の闇を押しのけて。
走って、走って。
それでも決して追いつけない、その男を魅了してやまない背中が、ゆっくりと道を曲がり消えたとき、あたしは裏路地に飛び込んでいた。
喧騒が遠い。
光が、遠い。
そこはとても暗く、とても寒い、そんな場所で。
その暗闇のなかに、一対の
双眸だ。
「一颯」
あたしは、その名を呼んだ。
かつての同僚。
消えた同僚。
男漁りが趣味の、少しばかりいけ好かない同期の桜。
そして――
「おう。随分と時を要したが、ようやくぬしを手に入れる瞬間が来たぞ――信田葛葉ぁ……!」
その蠱惑的な唇から紡がれるのは、しわがれた老人の声だった。
「誰、あなた?」
あたしは問う。
眼の前の人物をねめつけながら、すこしずつ、後ずさりながら。
鳥肌が立つ……本能がいっていた。この人物は危険だと。あたしの知っている同僚とは、まったく違う人間だと。
「いいやぁ、この肉はそもそも儂のものよ。わしの因子がこの瞬間まで残り続けた結果が、この女よ。ぬしを儂が手にし、すべてを手に入れた未来が、いま、
「……ごめんなさい。電波な同僚にはあたし、縁がないはずなのだけれど?」
「解らぬか? 解らぬよなぁ、この時代の神秘はおそろしく薄い。神仏であっても介入できぬほど、奇蹟が起こせぬほどに信心がない」
一颯が語る。
一颯の皮を被った何者かが、老人の声音で語る。
「〝
そこでそいつは、くつくつと笑った。
泥を煮詰めるような笑い声で。
悍ましく、嗤った。
「僅かに残ったぬしをまもる
声高に、その怪人は、言った。
「今宵は新月! 月のない夜! 月とは即ち、太陽の鏡! 太陽を写すその虚像! その残光が失せたいま、ぬしを守るものは、もはやない!」
守るもの。
あたしを、守ってくれるそれは。
「うぅっ……!」
ひどい頭痛があたしを襲う。
脂汗がにじむ、めまいがする。
思わずその場にうずくまる。
――逃げられなくなる。
そいつが。
その緑に燃える瞳の女が。
「いまこそ! 儂は天照の
信田葛葉。
「ぬしは、なにも知らぬまま――儂の肉体と為れ」
「それはなりませんなぁ――蘆屋、道満!」
いまはそらにない月光のような。
優しく涼しげな声が、暗黒の路地裏を照らすように響き渡った。
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