『不穏な雲行き』 その3

 リハーサルはあっという間に終わった。体感時間的にも、実際にも。



 『Nacht』の後にも、『Bell Ciel』をはじめとしたユニットがリハーサル室を使うことになっている。毎度のことながら、スケジュールは分刻みで、ギリギリだ。



 『Nacht』は一通りのパフォーマンスを終えると、追い出されるようにして楽屋へと戻された。



 リハーサルはあっという間に終わった。終わってしまった。つつがなく。



「この後はしばらくの休憩だな。あれだけリハーサルを急かしておきながら、機材トラブルで撮影時間は後にずれてる。ヘアメイクのスタッフが来るのももう少し後になるらしい。嘆かわしいことだ」



 とはいえ、既にリハーサル前におおよそのメイクとステージ衣装の着用は終えている。スタッフは数分で乱れた髪や衣服をほんの少し整えるだけで、それほど焦るような状況でもない。



「んー……でも、休憩できるのは……いい」



 何事もきっちりしていないと落ち着かない司狼と、のんびりマイペースにいきたい眞白は真逆の面持ちで、楽屋の椅子に腰かける。眞白はメイクを崩さない程度に机につっぷしながら、手を伸ばして差し入れの煎餅を貪っている。



 旭姫は、二人から少し離れた椅子に腰かけていた。先ほどから、ずっと携帯を覗き込んだまま、フォルダのあちこちを弄っているようだった。



「旭姫、何かあったのか?」



 一週間ほど前から、お前は様子がおかしい。司狼は言外にそう滲ませる。



 いつもの旭姫であれば、本番直前に心ここにあらずといった状態で携帯の画面と睨みあっているなんてことは、まずない。たいていは、静かに目を閉じ、これからのライブを想像している。イメージトレーニング――と言ってしまえば随分と真面目なことだと思われがちだが、彼がしているのはトレーニングだけではないのだろう。



 決心を固める、と言った方が正しいのかもしれない。照りつけるスポットライト。足元から頭の上までを響かせる音楽。そして、今の自分の目の前にはいるはずのないオーディエンス。ライブを想像しながら、彼は自分がアイドルになった時のことを、そしてアイドルになるきっかけとなった時のことを考えている。



 母のようには、ならない。



 絶対に、死ぬつもりはない。



 少しの油断が魔力の暴走に繋がらないとも限らない。僅かな驕りが自分の命取りになる可能性もある。だからこそ、決意を新たに、旭姫は本番に向かう。



 なのに、今回は少し違った。



「まさかとは思うが、『プレライ』の試練で何か……?」



 司狼の質問に、旭姫は静かにかぶりを振る。



 『プレライ』の試練は、ユニット全員で乗り越えることを目的としたものが多い。精神が未発達の若者であっても、仲間と力を合わせれば試練は乗り越えられる。仲間がいれば、という心強さが魔力の暴走を防いでくれる。それを見越してのものだからだ。



 だから、旭姫個人が何らかのトラブルに見舞われるということは考えづらい。



「本当に何でもないよ。ただ少し気になったニュースがあっただけだから」



 がたりとわざとらしく大きな音を立てながら、旭姫は椅子から立ち上がる。



「まだしばらく時間があるんだよね? 少しその辺を散歩してくるよ」



 手に持った携帯を軽く振って、旭姫は扉に手をかけた。



 すれ違い様、司狼に小声で伝言を残して置くのも忘れない。



「……メイクスタッフが楽屋にやって来る時点で僕がまだ持って来てなかったら、探しに来て」



「いつものこと、か?」



「そうだね」



 本番前に『Nacht』を、ことさら旭姫を貶めようとする輩は多くいた。実際、『星影祭』での忌々しい出来事もあった。あの時は仕方ない状況だったが、今回のように、旭姫が自ら相手の呼び出しに応じるというのも珍しい。



 だからこそ、司狼へのこの言伝なのだろう。



「俺も一緒に行った方が……」



「いいよ。これは僕個人の問題なんだから」



 こうなってしまうと、旭姫は頑固で譲らない。降参だとばかりに旭姫を見送ろうとした司狼だったが、ここで別の声が響いた。



「……どこ、行くの?」



 眞白だった。普段なら、眞白が旭姫のやることに声をかけることはない。眞白は旭姫のすることであれば、何事も、恋する少女のように、盲目的に受け入れているからだ。



「どこって……別に、ただの散歩だよ」



 質問に答えれば、終わりになると思っていた。けれど、眞白は納得するどころか、どこか不貞腐れたように、母親においていかれそうな子供のように、不満げな表情を見せる。それどころか、椅子から立ち上がり、旭姫の手首を強い力で掴んだ。



「……ちょっと、手、痛いんだけど。眞白、力強すぎ」



「行かないで」



 眞白が、はっきりと言葉を口にした。おそらく、彼が『Nacht』に所属してから、初めて。



 あまりの珍しさに、旭姫だけではなく、その場にいた司狼も目を瞠っている。



「何言ってるの……」



 やんわりと苦笑いを浮かべながら、旭姫は眞白の手をそっと振りほどく。強い力をこめていた割には、旭姫が拒絶すれば、その拘束は拍子抜けするほどあっさりと解かれた。



「そんなに遠くに行くわけじゃないよ」



「……本当に?」



「本当だって。どうしてそんな不安そうな顔してるの……」



 大丈夫だよ、と根拠のないことを旭姫は言う。



「僕がこれだけ大事にしている『プレライ』なんだから、ちゃんと時間通りに戻って来るって。それとも、眞白の方が緊張してるの?」



 もう保護者の応援が必要な歳でもないでしょ?



 そうからかうように諭せば、きまり悪そうな顔で眞白は引き下がってくれる。



 それじゃあ、と旭姫は再び扉に手をかけ、誰も守ってくれる者のいない楽屋の外へと出て行った。



 旭姫の瞳は携帯の画面に注がれており、彼を見送る眞白の表情は、見ないままだった。





 珍しいこともあるものだと、二人のやりとりを見ながら司狼は思う。普段の旭姫がしそうにないこと、普段の眞白がしそうにないこと、その二つのタイミングが奇しくも重なっている。



 まるで、これから何かが起きるみたいに。



 まるで、悪夢の予兆みたいに。



 ……なんて。我ながら、どうしてこんな不吉なことを考えてしまっているのだろう。



 そんな自分の嫌な考えを振り払うように、司狼は差し入れの煎餅をおもむろにかじってみる。醤油の味がなんとも甘辛く、先ほどから眞白はこれを飲み物なしで頬張っていたのかと驚かされた。

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