『眞白の過去』 その7
人を傷つけるくらいなら、自分が傷ついた方がいい。けれど、自分だって痛いのは嫌いだ。傷つけば痛い。だったら、誰も傷つかなければいい。何もしなければ、誰も傷つかない。
自分にそう言い聞かせ、カーテンを閉め切った薄暗い部屋で過ごすようになってから、どれくらいの時間が経ったのだろう。時計なんて滅多に見ないから、もう感覚が狂っている。
朝が来て、眠くなったら寝て、夜が来て、起きて、眠くなったら寝て、朝が来て。繰り返す日々はもはや擦り切れたレコードのように、うすぼんやりとした曲しか奏でない。
不思議と食欲が湧かないのは、この現状が現実であるとは受け入れがたい自分が、現実に希薄感を持たせるための唯一の方法だと、身体が主張しているせいなのかもしれない。
「それじゃあ、いってくるわね、眞白」
「……うん」
制服を着てもそもそと食パンをかじる眞白に、母が柔らかく微笑んだ。
「……今日は?」
「繁忙期だしね、ちょっと遅くなるわ」
「……わかった」
いってらっしゃい、という意味をこめて、眞白はひらひらと手を振った。
やがて扉が閉まり、家が静かになる。
柔らかく射しこむ陽光。雲一つない晴天。いつもと変わらない朝の風景。
いつだったか、本でこんな独白を呼んだことがあったっけ。
こんな日にナイフで頭の中をぐちゃぐちゃに掻き混ぜれば、どれだけ気持ちいいだろう。
けれど、そんな大それたことができるはずもなく。
眞白は制服を脱いでシャワーを浴びた。今日もまた、学校に行った振りをして一日を自室で閉じこもって過ごす。母が帰ってくる時にだけ、今日もいつも通り、普通の男子学生が過ごすような一日を過したのだと、何でもない顔をして迎え出る。こんな杜撰な引きこもりが上手くいくわけがない。そのことは眞白も分かっている。ただ母が何も言わないから、それに甘えているだけなのだ。
シャワーを浴びた後、その痕跡を片付け、髪を乾かすことなく自室にこもる。先ほどまでふんだんに浴びていた陽光は自分には眩しすぎるから、眞白はカーテンを閉め切った。それからテレビをつける。
この生活を繰り返すようになってから、眞白はずっとテレビを見ていた。様々な笑い声が零れるバラエティーに、眞白の唯一の勉強道具となった教育番組。日によって、時間によって多種多様の番組を流し続ける薄い板に眞白は夢中になった。板に映る映像に夢中になれば、現実は希薄になり、時間が湯水のように流れ出ていく。それがよかった。そうでなければならなかった。
様々な番組の中でも特に目が離せなかったのは、過去のアイドルを特集した番組だった。アイドルが絶滅危惧種となった今、既に音楽番組など無いにひとしかったが、それでも、季節の変わり目に放映される特別番組で、度々特集が組まれていた。まるで、人々がその娯楽の消失を惜しむかのように。
アイドルって、すごい。
そんな漠然とした感想を抱いてから、眞白はテレビとネットを駆使して、様々なアイドルについて調べた。木虎姫や木虎空。それから天生目秋彦についてなんかも。
アイドルとは不思議なもので、舞台に立って、歌って踊っているだけなのに、その一挙手一投足が輝いて見える。アイドルが笑うと、自分も笑顔になれる。アイドルを見た後は世界のすべてが輝いているように見え、自分はまだ生きていてもいいのだという希望が与えられる。
だから、眞白はアイドルに夢中になった。
引きこもりで、若年無業者の、アイドルオタク。
自分が救いのない存在であることは百も承知だったが、この世界にアイドルと呼ぶべき誰かが存在する限り、眞白は生きていこうと思えた。
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