『眞白の過去』 その6

 中学に上がった頃、眞白の身長は急激に伸び始めた。学ランを着た眞白を見て、母は「お父さんも背が高かったからね」と嬉しそうに、在りし日を懐かしむように目を細めていたことが印象に残っている。



 以前の眞白なら、そのような母に思うところがあったのかもしれない。泣いたかもしれないし、喜んだかもしれない。しかし、母の目の前に学ランを立ち、小学生の頃と比べればかなり身体的な成長を見せた眞白は、何も思うことができなかった。感情を表に出すこともできなかった。



 痛みも孤独も見ない振りをする。繊細ではなく、鈍感であるべき。涙はもう流さない。すべてに鈍くなっていくから、口数も減った。ただでさえ母以外に会話を交わす人もいなかったのに、その母との会話も減れば、使う機会のない言葉がだんだんと鈍り、死んでいく。



 それが、たった一筋の光を失って以降に形成された、犬色眞白という人間だった。



 小さな村には中学校がない。だからバスに乗って町まで出る。それが眞白の登校経路だ。眞白の世界は、母とふたりきりの小さな閉ざされた村から少しだけ広がった。



 広がったけれど、だからと言って、変化は少ししか訪れなかった。



 中学に上がると、わざわざ得体の知れない存在をからかうべきではないと察したのか、それともからかうこと自体あまりにも馬鹿々々しいと気づいたのか、同級生から直接的に何かを言われたり、揶揄されたりすることはなくなり、遠巻きにされた。そのため、眞白には直接的な被害はなく、学校では常にひとり、机に突っ伏して過ごすことがほとんどだった。



 問題は、上級生の方だ。町の連中は眞白が『魔法』を使うところを見たことがない。だから、眞白に『魔力』があるということを、噂程度にしか知らない。



 皆が口々に不良だと噂する、暴力行為と恐喝によって存在感とアイデンティティを確立しているような上級生が、何度も眞白の元を訪れた。眞白はひとり、閉じた世界の中で過ごそうと思っていたのに、彼らが引きずり出そうとした。



 最初は断っていた。口下手ながらも、あの噂はただの噂であって信憑性はない、貴方達の好奇心を満たすことはできない、そう伝えているのに、彼らは納得しなかった。それどころか、眞白を生意気だと考え、次第に眞白を呼び出す理由が変化していった。



 ある日のこと。放課後の、教師という統治者が去り、教室には見て見ぬ振りしかできない生徒ばかりになった時、眞白は彼らに捕まった。取り囲まれ、掴まれ、文字通り引きずり回され、人気のないところにまで連れてこられた。



 校舎の陰になる薄暗い砂利道で、眞白を取り囲んでいる人間は三人。いずれも眞白と同じ位の体格だった。



 彼らの興味はただ一点に集中している。『魔法』の存在の証明だ。おそらく、眞白が『魔法』を使えるのであれば、仲間に引き込み、そうでないのなら、今まで自分達を無視してきた生意気に鉄槌を食らわせようとしているのだろう。



 しかし、眞白はもう『魔法』を使わない。



 正確には、使えないのだった。



 風船を手繰り寄せてからというもの、眞白は『魔法』を使ってはいない。初恋とも呼ぶべき感情をずたずたに引き裂かれてからというもの、『魔法』を何のために使えばいいのか分からなくなった。



 使おうと考えなければ、イメージできなければ、『魔法』は発動できない。やがて、使われなくなっていく力は、次第に鈍り、機能を失い死んでいく。



 眞白はもう、自分の中に『魔力』が流れているとは思えなかった。



 だから、殴られても蹴られても、抵抗はしないし、できない。



 文字通り飽きるほど眞白を痛めつければ、彼らは去っていくだろう。後には痛みだけが残る。自分はただそれを待てばいい。



「……っ」



 誰かの放った拳が、側頭部を殴打する。脳がぐらりと揺れる衝撃を感じ取り、眞白はそのまま地面に倒れた。



「頭はなしって言ったろ」



「わりぃ、偶然だって」



「気をつけろよ。マホウっつうのは頭で思い描いて発動するもんだろ? 頭殴ってぶっ壊れたら暴走するかもしんねえじゃん」



「木虎姫みたいに?」



「バーカ。あれはジョウチョフアンテイだったからだろ」



 衝撃に揺さぶられた頭では、彼らが何を話しているのか、聞き取れはするが理解はできない。上手く呑み込めない。



 眞白は咄嗟に手を殴打された部分に当てた。そこはどくどくと脈打っており、熱い。手を離すと、赤褐色の液体がべったりと付着していた。それが自分の身体に流れる血であると理解するまでにも時間を要した。



 血が、流れている。頭から、やがて頬を伝って地へと吸い込まれていく。紅の液体は、酸素に触れることで赤褐色となり、どす黒くなり、乾いていく。



「でもさー、コイツ、マジでマホウ使う気配ねえし」



「ただの噂なんじゃねえの?」



「ま、マジでマホウが使えたらキモいよな」



「俺達とは違うって感じで」



「それ異常ってことじゃん」



「異常だよ。マホウが使える奴なんて、全員どっかおかしいんだろ」



「何がマホウの原因が知らねえけど、ぶっ飛んでんだろ」



 眞白にはもう会話は聞こえない。ただじっと血のついた掌を見つめていた。久々に流れる自らの血を見て、動揺し、パニックに陥り、それが妙な高揚をもたらしていた。



 木虎姫の『魔力』が暴走した原因は、心の動揺であったと聞く。



 本来、『魔法』はイメージを描いてから発揮されるものだ。しかし、この時、眞白の頭の中は、何も思い描けないほどにぐちゃぐちゃだった。



 ずっと使えなかった『魔法』が、もう使うこともないだろうと思っていた『魔力』が、暴走する。



 ぐちゃぐちゃになったイメージの中で、唯一『魔法』の形を取り得たのは、あの日の風景。灰色の空と、一陣の風と、赤い風船。



 眞白が正常な思考能力と感覚を取り戻した時に見えた光景は、今まで自分に暴力を振るっていた人間が横たわり、痛みに呻く様子だった。



 強風が砂や小石を巻き上げ、飛ばされたそれが相手の皮膚を引き裂く。厳密には違うが、かまいたちと似たような原理だ。



「あ……」



 何が起こったのか分からない光景の中で、赤色だけが妙に映えている。



 彼らは言った。『魔法』が使える奴など、どこかが異常なのだと。



 彼女は言っていた。『魔力』を持つ者は、自分と違うから、怖いのだと。



 彼ら、あるいは彼女らは直感していた。自分と違う者は、拒絶されて然るべきだと。



 眞白の中で、今、それは間違いだったと結論づけられた。



 だって、同じじゃないか。身体に血が流れていることも、殴られ傷つけられたら痛みを訴えることも。流れ出た赤い血が、やがてどす黒く固まっていく様も、同じじゃないか。



 皆が皆、同じなのに、自分だけが異常だなんて、気持ち悪いなんて、不気味だなんて、笑ってしまう。


 奇妙な半笑いを浮かべたまま、眞白は唇を舐めた。うっすらと錆びた鉄のような味と匂いが感じられる。これが、自分が今生きているという証だった。皆と同じ、人間として生きている証。



 そんな眞白を見る人が見れば、こう例えたことだろう。



 化け物。



 人を傷つけ、血を流させ、その様を見て笑みを浮かべる眞白の姿は、化け物以外の何でもない。



 そして、しばらくは横たわる犠牲者を見つめていた眞白も、やがては自分の心を鈍らせすぎたあまりに、それが歪になっていたことに気づくのだ。



 歪な心は、突発的な暴力性を生み出してしまった。



「う……」



 今までは傷つけられるばかりで、ここまで誰かを傷つけ、痛めつけたことはなかった。自分があんなに辛いと思っていたことを他者に強いる。再び繊細さを取り戻した心は事の大きさに震えている。



「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」



 眞白は急に怖くなり、その場から逃げるように駆け出した。



 家に帰り、重い身体をベッドに沈ませる。布団をかぶり、外部からの視覚情報聴覚情報をシャットアウトした。もう何も見たくない。何も聞きたくない。――何も考えたくはない。



 自分からすべてを遮断しておきながら、眞白はテレビだけをつけた。自室という暗所の中で、人工的な光が部屋の一部を照らし出している。



 少しでもいいから、思考をかき乱す雑音が欲しかった。

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