『不穏な雲行き』 その8

 その日、空翔は朝から嫌な予感がしていた。



 虫の知らせとでもいうのか、胸がざわざわと嫌な音を立てて震えているかのようだった。



 落ち着かなければ。心の動揺が悟られれば、『プレライ』の点数は大幅に目減りしてしまうからだ。それでなくとも、落ち着いて発動できない『魔法』は、効果がいまいちだったり、逆に暴走を起こしてしまったりと、先が読めない。



 リーダーである美琴が、何度も何度も作戦を考え、計画を練り直し、本番までに各々の輝きが一番になるよう立ててくれたスケジュールや演出プラン、セットリストを滅茶苦茶にしてはいけない。まだ初心者で何も分からない自分に、ステージでの動き方やMCの基本を教えてくれた夕の努力と優しさを、水泡に帰すわけにはいけない。



 そしてそれ以上に、『Bell Ciel』がデビューする日を、観客で溢れんばかりのステージの上に立ってパフォーマンスを見せるその日を、先延ばしにするわけにはいかなかった。



 普段の空翔であれば、集中したいからと言って、『プレライ』のセットリスト順に曲を再生いながら、『プレライ』のことだけを考えている。緊張したり切羽詰まった表情をしていれば、それなりにライブ経験のある夕が気遣って話しかけてくれるので、結構助かっている。



 けれど、その日は違った。最初は「今日はカメラが入る『プレライ』だからだ」と自分を落ち着かせようとしたのだが、どうにもそわそわしてしまう。



「空翔、ちょっとは落ち着きなよ。まるで発情期の白クマみたいだよ?」



「はつ……?」



 楽屋をうろうろと動き回っていた空翔を見咎め、美琴が声をかける。



「少し前にね、父の事業拡大示談に同行して、生まれて初めて動物園に行ったんだけど、ちょうどその頃、白クマが発情期を迎えていたらしくてね……あれは傑作だったよ。生命の本能に基づいた行動にすぎないのに、理性を介すとどうしてああも滑稽に移ってしまうんだろうね?」



「……?」



 美琴の言葉は、単純思考の空翔にはいつも少しだけ難しい。初心な空翔にはまず、発情期という言葉の意味すら分からない。夕に尋ねようとしたのだが、彼はこの話には混ざりたくないというように目を逸らしてた。きっとあまりいい意味の言葉ではないのだろう。



「あ、えっと、俺……」



 どうしたものかと戸惑い、ろくな返事ができないまま、思わず後ずさる。すると、空翔のぶつかった壁の向こうから、ざわめきが聞こえてきた。



「何か、隣の楽屋、騒がしいよな」



「……言いたくもないけど、隣にいるのは『Nacht』の連中だよ」



 言い争うとも少し違う。何か揉めている? 直前に何らかの試練にあたったのだろうか。



 気になった空翔は、自分の楽屋の扉を、ほんの少し開けてみた。とは言っても、今以上に向こうの声が鮮明になるというわけでもない。



 しかし、向こうもちょうど話し合いの決着がついたのか、こちらとほぼ同時に扉が開いた。中から出てきたのは旭姫だ。



 何か、声をかけられたらと思った。



 けれど、何も声をかけることができなかった。



 旭姫は携帯の画面を注視している。遠くからなので、その画面が何を旭姫に示しているのかは、空翔には分からない。



 ただ分かったのは、その時の旭姫は、自分の知っている「兄さん」とは違うということだ。



 旭姫は、今まで空翔の見たことのない険しい顔をして、吸い込まれるように、非常階段の方へと消えていった。

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