『不穏な雲行き』 その7
『……メイクスタッフが楽屋にやって来る時点で僕がまだ持って来てなかったら、探しに来て』
そう言い残して出て行った旭姫は、本当に、その時間になっても帰って来なかった。
あくまで冷静に、何事もないように席を立ち、旭姫を探しに行く。
その段取りを阻んだのは、眞白だった。
「……オレも、行く」
「いや、ひとりは楽屋に残った方がいいだろう」
「……メイクさんに、事情を話す。それで他のユニットのメイクを先にするというなら、次に誰かが来た時のために、書き置きを残していけばいい。二人で探した方が、効率がいい」
眞白には、見苦しい場面も醜い光景も見せたくない。そのような二人の心を知ってか知らずか、眞白は旭姫を探しに行くと言い張っている。
淡々とではあるが、これほどまでによく話す眞白を、司狼は久しぶりに聞いた。
これでは、戻れと言っても聞かないのだろう。司狼が楽屋を出て行った後、自分もこっそりと旭姫を探しに行きかねない勢いだ。
「……俺が戻れと言ったらそれはリーダー命令だ。すぐに楽屋に戻れ」
司狼の提案に、眞白は大人しく頷いた。
♦♦♦♦♦
「……この化け物ッ!」
地下の楽屋から、地上へ向かう際にある非常口の扉。そしてその扉の先には、屋外に備え付けられている非常階段がある。
扉の向こうから、怒鳴り声が聞こえた。
嫌な予感がする。それと同時に、またいつものことであるという予測が立つ。司狼は非常階段の扉に手をかけた。
「は、母親を、そんな風に言うなんて……」
「そう言わせたのはあなたでしょう」
司狼の予想通り、怒鳴り声の後には、冷静な旭姫の声が聞こえる。
ただ、いつも通りの言い合いとどこか違っている。しばらく考えて、その答えに辿り着く。
旭姫が冷静なのはいつものことで、相手の様子だけが違っている。
従来の性格ゆえなのか、旭姫が議論でも口喧嘩でも、常に冷静な声で言葉を返す。それに対して、相手は激昂してしまうというのがたいていのパターンだった。
なのに、今の相手は、怯えている。
旭姫は、一体何を言ったのだろう。
「ここから先は、俺が様子を見て来よう」
だから眞白は楽屋に戻ってくれ。そう言いながら、扉を開けた。踊り場に二つの影がある。おそらく旭姫と、彼を呼び出した相手なのだろう。
「だから、『魔法』なんて、おかしいと思ったんだ! 『魔法』を使える奴なんて、どこかおかしい! 普通じゃない!」
怯えている相手というのは、もしかしたら、激昂している相手よりも厄介なのかもしれない。
「気持ち悪いんだよッ! お前は! お前ら魔法が使える奴らは、皆ッ!」
理解しがたい者への恐怖と憎悪。そして拒絶。
それらが混ざり合った、どろどろとした感情の最中で、本能のままに人間は動く。
名も知らぬ、瞳にどす黒い感情を湛えた彼が、旭姫を突き飛ばした。
場所は非常階段の狭い踊り場。一歩後ずされば、すぐに段差に突き当たる。
――危ない。
そう直感したら、すぐさま、司狼の身体は動いていた。
――旭姫が、危ない。
ユニットのセンターが、自分の弟分が、危機にさらされている。
咄嗟に階段を駆けあがる。旭姫の身体を自分の身体で受け止める。勢いづいて、二人とも階段から転げ落ちそうになるところを、手すりを掴んで必死に堪えた。
「……っ!」
力を込めた腕に、とてつもない負荷がかかる。けれどこの腕を離すことはしない。決して、したくない。腕から伝わる痛みが、直接脳にずきりと響いた。痛みに息が止まりそうになる。
――だから、司狼は気づけなかった。
彼と旭姫の隣を、何かがすり抜けていく。素早い動きではなかった。ただ、ゆっくりと、ひとりを見据えて、そこに向かって階段を歩んでいく。
それが誰であるか、司狼が気づいた時には、もう遅かった。
「やめろッ! 眞白ッ!」
音が聞こえる。人に痛みを与えている時の、骨と骨がぶつかり合うような、固い音。
「……気持ち悪いとか、言うな」
いつも通りの眞白である、とは、とてもではないが言い難い。
彼の声は怒気を孕んでいるし、瞳は憎悪に燃えている。感情のまま、本能のまま、眞白は旭姫に危害を加えた相手を殴った。それも、何度も。相手の鼻から血が噴き出し、相手が止めるよう懇願しても、眞白は拳を振り下ろし続けた。
何度も、何度も、嫌な音が聞こえる。
「旭姫のことを、悪く言うな」
こんな眞白は、初めて見る。だからと言って黙って見ているわけにもいかないが、止めろという意思をこめて彼の肩に置いた旭姫の手は振り払われてしまった。
「旭姫のことを……知らないくせに……っ、何も知らないくせに……旭姫を侮辱するなっ!」
初めて聞く眞白の怒鳴り声は、びりびりとした殺気を孕んで、辺りに響いた。
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