『あの日の約束』 その4
先ほどから、意識は覚醒と昏睡を繰り返している。
医者の判断では、風邪と診断された。それも、ひどくこじらせたタイプの。
点滴を打って数時間病院のベッドに寝かされた後、空翔は星影学園男子寮の自室に戻された。病院の帰りは夕が付き添って彼をタクシーに乗せたのだが、高熱で、立っているのもやっとなくらい、空翔はふらついていた。
昨日今日の風邪ではないのだろう。これほど熱が上がるまでには、いくつかのプロセスがあったに違いない。けれど、旭姫の言った通り、空翔はそれを誰にも悟らせなかった。毎日のように顔を合わせているメンバーに対してさえいつも通りに振る舞い、『プレライ』に向けた過酷な練習さえ乗り越えてみせた。
たいした根性だと思う。今朝、少しふらついて倒れなければ、そしてそんな空翔を支えた美琴が彼の高熱に気づかなければ、それこそ気力だけで『プレライ』を乗り越えてしまえたのではないかと思えるほどに。
自室に戻ってから、しばらく空翔はぼうっと空を見上げていたが、少しすると穏やかな寝息が聞こえるようになった。夕は甲斐甲斐しく額の濡れタオルを替えたり、汗が伝う彼の身体を拭いたりと看病している。
「ん……」
布団をかけられた空翔の身体がもぞもぞと動く。
「大丈夫……じゃねえよな。まだすごい熱だし。起きたんなら、何か食えそうか? 粥か桃缶か……すりおろした林檎っていうのもあるよな」
「いい……お腹は、空いてない」
それよりもライブが、と、彼は風邪で重く感じられるであろう身体を無理矢理起こす。
「まだ寝てろよ! すげえ熱だって言っただろ!?」
「だって……ライブが……っ」
ライブなら、もう始まっている。今の時間だと、アンコールのあたりだ。点滴の最中は意識が朦朧としていたこと、そして現在も高熱が続いていることもあり、空翔の中の時間間隔は狂っているのだろう。
「ライブは……」
オレ達の代わりに、『Nacht』が出たよ。
そう真実を伝えていいのか迷った。なにしろ、空翔が風邪をひた隠しにしてまで出たがっていたステージなのだ。
「そ、それよりさ、食欲がないならいいけど、他にしてほしいこととか、持ってきてほしいものとかないのか? 冷たい水とか、額の上のタオルもぬるくなってるよな」
オレ、替えてくるよ、とその場を去りかけた夕の服の裾を、空翔が掴んだ。
「どうした?」
「……連れてきてほしい人が、いるんだ」
「美琴か? 美琴ならさっき自室にこもったけど……」
「違う……リーダーじゃなくて……」
いや、本当は、真っ先にリーダーを呼ぶべきだったのかもしれない。呼んで、今回の、ライブ前に倒れるという失態を詫びるべきだったのかもしれない。
心の内ではそう分かっていたのに、空翔はそれをしなかった。
やっぱり、自分は身勝手な人間かもしれないな、なんて、熱に浮かされた頭で考えている。
彼と同じステージに立ちたいという一心で、無茶をして倒れて。
風邪で弱っているから許されるだろうなんて甘えた気持ちで、ユニットのメンバーにも無茶なお願いをしようとしている。
そして、このお願いは、彼にも迷惑がかかるだろう。
今日、どんな無茶をしてでも、一緒のステージに立ちたいと空翔に願わせた「彼」にも。
「オレの知ってる奴か? 学園の周辺にいる奴なら呼んで来れると思うけど……それとも、家族とか?」
夕の言葉に、空翔は頷くべきかどうか迷ってしまった。
彼は空翔の家族だ。正確には、家族「だった」。
「……兄さんに、会いたい」
「兄さん……?」
空翔の言葉に、夕は首を傾げるしかなかった。
『Bell Ciel』が結成される時、申請書類の提出が必要だった。その書類には、自身にプロフィールだけならまだしも、家族構成だとか、学歴だとか、まるで役所に提出する書類のように、プライベートに関する記入必須項目が並んでいた。書類をまとめたのはリーダーである美琴だったが、夕と空翔も手伝った。
その時に、空翔についての書類も見た。両親と一人息子という三人家族で、確か兄弟姉妹はいなかった。そのはずなのに、彼は兄を呼んできてほしいという。
「えっと……名前とか、特徴とか、教えてくれるか? もしくは電話番号とか連絡先を……」
戸惑う夕に、空翔は、小さな声で、けれどもはっきりと、「兄」の名前を口にした。
「……あさひ」
夕の中では、しばらくの間、彼の言う「兄さん」と、「あさひ」の名前が繋がらなかった。
「……あさひ兄さんに、会いたい」
木虎旭姫。それが、空翔の兄の名前だという。
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