『星降る夜空に願うのは』 その9
懐中電灯は、二つ持ってきておいて正解だったと司狼は思っている。
しかし、司狼の父ならば、言うだろう。確かにそれが正解だったかもしれないが、最善ではなかった、と。あらゆる状況を考慮して動いたならば、人数分の懐中電灯がいるはずだったと。
だが、そんなことを考えてももはや後の祭りだ。せめて、はぐれてしまったチームにひとつずつ懐中電灯が行き渡っていることを祈るしかない。
決して完全とはいえない光で周囲を照らした。上下左右。自分が今踏みしめている地面も、自分の上に広がる、木々で切り取られた、星々が輝く夜空も、見覚えはあった。自分達がすすんで入って来た森の中だから、当然と言えば当然なのかもしれない。
ただ、見覚えがある場所と知っている場所というのは、違う。
自分達のいた場所から、少しばかり離れてしまっているらしい。不思議なことだと思った。普段、魔法を使っている自分達ではあるが、それはがらんとした客席を見据えるステージの上でだけだ。日常生活に魔法が組み込まれるなんて、実感がなかった。
どうやら、元いた場所からワープするように、別の場所――森のもっと深い場所――に迷い込んでしまったらしい。
「……しばらく待った方がいいだろうな」
迎えを待つまで受け身とはいかずとも、せめて朝までは待った方がいい。もっと万全な状態の中で動いた方がいい。
「だ、大丈夫なのかよ……? こんなどこかも分からない何がいるかも分からない森の中で、朝まで、なんて……」
司狼の隣から、震えた声が聞こえる。その声の主である瀬ノ尾夕は、声だけじゃなく、震える身体を司狼にくっつけてきた。端的に言えば、怯えている。このような夕の状態を、司狼は少女漫画で読んだことがある。お化け屋敷に入ったヒロインが、「怖~い」と言いながら、頼り甲斐のあるヒーローの腕に自らの腕を絡ませるのだ。最も、今の状況、司狼と腕を組んでいるのは少女漫画のヒロインなどではなく、先ほどまでクワガタに大はしゃぎしていた精神年齢が男子小学生な人物なのだが。
「な、何か来ちまうんじゃねえの……? ほら、よく聞くじゃん……く、熊とかっ、虎とかっ、ライオンとかマンモスとか……っ」
「時代と生息地を考えろ、馬鹿め」
先ほど、夕は少女漫画のヒロインポジションなのではないかと司狼は脳に蓄積された情報を寄せ集めて考えたのだが、きっと違う。彼はアレだ。当て馬役だ。デートの時男らしくキメようとお化け屋敷に入るも途中から本気でビビりだして最終的には振られてしまう男なのだ。
「それに、俺達は何も『一般人』というわけじゃない。何かあっても自分の身くらいは自分で守れるだろう」
「オレ、『魔力』自体は弱いから無理かもしんない……」
夕にしては珍しく、弱気になってしまっている。
いや、珍しく、ではない。
司狼が初めて夕に出会った時、彼は沈鬱な表情で俯いていたのだ。未来など見えぬまま、泣きそうになりながら、唇を噛みしめて必死に嗚咽を堪えて、俯いていた。
彼がまだ、女の子のように華奢で、か弱くて、こちらが守ってあげなければと思わせるだけの男の子だった時の話だ。
ふいにあの時と光景が被って見えた司狼は、あの時に似た言葉を口にする。
「安心しろ。俺がお前も守ってやる」
自分で言っておきながら、やはり恥ずかしい言葉だと思った。
「……お前、相変わらず少女漫画の読みすぎだろ」
けれど、そのことが逆に、夕を笑わせていた。
軽い笑い声が響く。あの頃の彼とは、正反対の反応だった。あの時の彼は、司狼の言葉を聞きながら、無意識のうちに涙を流していたというのに。
あの頃。あの時。既に過去にされてしまったような言い草だが、考えてみれば、そんなに昔のことじゃない。せいぜい、一年と少し前のことだ。
二人して親密な関係だったというわけではない。特別仲が良いわけでも、相性が良かったわけでもない。強いて言うなら、「ビジネスパートナー」という言葉がぴったりの間柄だった。
授業が終わり、濃いオレンジ色の陽射しが窓から差し込むようになった放課後、『Nacht』のレッスンが入っていない日、司狼は気まぐれに夕の部屋を訪れた。男子校に咲く一輪の造花――夕の部屋は、まさにその呼称に相応しいものだった。
クローゼットに入っているのは、ふんわりとしたシルエットを演出する、女の子であれば誰もが憧れるような、お姫様みたいな、妖精みたいな衣装の数々。本棚に入っているのは、司狼が夕の部屋に持ち込んだ少女漫画。机の上には、まだ作っている途中の楽曲。試行錯誤の証を残すように、ボツ案となった楽譜がくしゃくしゃに丸められ、机の端に寄せられていた。
帰らなければならない時刻が来るまで、司狼と夕は、そこで必要最低限の話をした。ビジネスの話しかしなかった。何も話すことがない時は、背中合わせに少女漫画を読みふけっていた。
「……ありがとな」
夕も、同じ日々のことを、振り返っていたのだろうか。しみじみとした声音で、けれど司狼の耳にはっきりと届く声で、呟いた。
「どうしたんだ、急に。起こってもいないことを仮定して感謝するな。俺達の世界では結果がすべてだぞ。例えばここで急に毒蛇が現れ、俺がお前を見棄てて逃げる可能性だってある」
「お前……っ! 脅かすようなこと言うなよっ!」
せっかく人が勇気づけられたと思ったところにさー、と、ぶつぶつ文句を言う夕だったが、先ほどのように本気で怯えてるというわけではなさそうだった。
「それに、見棄てて逃げるとか、アンタはそんなことするような奴じゃねえよ」
また、夕の声がはっきりと司狼の耳に届く。
夕の声は、いつもそうだ。ちゃんと男の子だと分かる声も、女の子のような歌声も、ちゃんと瀬ノ尾夕のものだと分かった上で、まっすぐに、耳まで届く。透き通るような声でいながら、存在感はちゃんとある。だからはっきりと伝えたい人に言葉が届く。上辺だけの言葉ではなく、言葉のうしろに隠れている意志まで容易に読み取れる。
夕は、ちゃんと知っているのだ。天生目司狼という人間を。
彼の声も、口調も、そう主張していた。
「あ、あと……ありがとうっていうのは、今ここでのことだけじゃなくて……」
改めて言うと照れ臭えんだよ! と夕は逆切れ紛いな癇癪を起こす。
「アンタ、今まで色々してくれてただろ。全部が全部、オレのためだった、なんてうぬぼれるわけじゃねえけどさ」
――アンタは、まるでオレのプロデューサーみたいだった。
大切な宝石を両手でそっと包み込むみたいに、大事に大事に、夕は司狼との日々を振り返り、一言ずつ積み上げていく。
「ただの石ころみたいに道端に落ちていたオレを、スカウトっていう形で拾い上げて、光るかどうかも分かんねえのに、きっと光るんだって信じて大事に磨き上げてくれた。アイドルとして売り出す方向性を研究して、決定して、そうしたらもう一直線に、一緒に突っ走ってくれた。レッスンの手配も、衣装の手配も、楽曲の提供もしてくれた。『星影学園に咲く一輪の造花』を作り上げた人物がいるなら、それはオレじゃなくて、司狼の方だ」
その時のことも全部含めての「ありがとう」なのだと、夕は言った。
「……これ、返すよ」
夕は小さいトートバッグの中からクリアファイルを取り出した。バッグは、彼がこの島に来た時から肌身離さず持ち歩いていたものだ。司狼はてっきり中には虫かごでも入っているのだろうと決めつけていたが、そうではなかったらしい。
クリアファイルの中には、楽譜が入っていた。
それがどんな曲は、司狼はざっと目を通しただけで知っている。何しろ、その曲を書いたのは司狼なのだから。
これは、司狼が最後に夕に渡した曲だ。
もう歌われる機会の無くなった新譜だ。
「オレはもう、『Bell Ciel』の瀬ノ尾夕であって、男の娘アイドルじゃなくなっちまったから……その曲は、いつかお前が好きになった相手に歌ってもらえよ」
「……そうだな。そんな日が果たしてやって来るかは分からないが」
そもそも、アイドルに恋愛はご法度なのだが。
司狼が作詞作曲したのは、甘酸っぱい恋の曲だった。想い人に対して素直になり切れない女の子の複雑に見えてとても単純な心情を歌った曲。自由な私でいたいのに、心は思うように動いてくれずにもどかしい。ドキドキとときめきと、ほんのちょっとのほろ苦さ。そんな「女の子の大好きな物」と、「男の子が考える女の子の大好きな物」がミックスされた歌だった。
プロデューサーとは、何よりも真っ先に、プロデュースする対象について考えなければならない。だから、司狼は夕のことだけを考えてこの曲を作った。「男の娘アイドル・瀬ノ尾夕」が歌うのなら、どんな曲がいいだろう。曲にはどんな衣装が似合うだろう。ライブで歌う時には、どんな演出にすべきだろう。考えられる限りすべてのことを考えながら作り、夕に渡した。
だから、この曲は夕以外には歌えない。
返されても、日の目を見ずに終わるだけだ。
それでも、司狼は夕から返された曲を何も言わずに受け取った。
その光景から、過去がよみがえってくるようだった。もっとも、あの時は今と逆の立場で、司狼が差し出した曲を、夕が何も言わずに受け取ったのだけれど。
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