『眞白の過去』 その9
バスには何度も乗ったが、電車に乗るのは初めてだった。そうでなくても、外に出たのは久々で、他人とすれ違うことすら久々で、色々と勝手がつかめない。
道を尋ねたり、ぶつかったりするだけで、どうしてもびくつき身体が竦む。それでも自らを奮い立たせて歩みを進めたのは、まだ胸の奥に情熱が宿っているからだ。木虎旭姫の――『Nacht』のライブを見た時の感動を覚えているからだ。
家の中にいた時にすら煩わしく感じられた陽光が、今ではただただ眩しいだけ。光を浴びて、ようやく細胞が呼吸できているような、眠りから目覚めることができるような、すっきりとした気持ちで、窓の外の流れゆく景色を眞白は見つめる。
家には簡潔な手紙を置いてきた。『やりたいことが見つかったのでいってきます』と、ただ、それだけ。実の母子でこんな言葉を使っていいのかは分からないが、不義理を、ひどいことをしてしまったように思う。それでも光を失った瞳で一日中引きこもっているよりはマシだろうと考えてしまうのは、ただのエゴなのだろう。結局、自分は母に、父と同じことを、何も言わずに消えてしまうということをしてしまっただけだから。
星影学園に到着し、オーディション会場に入った時まではよかった。気分はそれなりに高揚していたし、長い引きこもり生活の間で鈍くなった身体もそのおかげでどうにかこうにか動かすことができた。
問題は、その後だ。
テレビで参加者を募るという大々的な方法をとっただけあって、中には既に何人もの人がいた。募集要項にあった通り、全員が全員、そこそこもしくは巨大な『魔力』を持つ人間である。しかも、アイドル志望というだけあって、皆見目麗しい者ばかりだった。
誰もが、扉を開けて入って来た眞白に、一瞥をくれた。
たったそれだけのことなのに、身体の震えが止まらない。
もともと、他者とかかわり合うことを極端に避けてきた自分なのだ。「どうしてこんな奴がこんなところにいるんだ」と誰かに言われているような気がした。オーディションに臨む者は皆自分が選ばれるに足る人間であると自負してここに集まっている。自信を持っている。ただひとつの感情に突き動かされてやって来た眞白とは違う。そして、ここで開き直ることができるほど、犬色眞白という人間は強くない。
「うわっ!」
「どうした?」
呆然と立ち尽くしていると、眞白の目の前にいた人間が声を上げた。悲鳴というよりも、小さく驚いた、程度の声だ。
「いや、なんか風が……」
「風? この室内で?」
嫌な予感はした。あの日、初めて『魔法』を使って暴力を振るってしまった時のような、嫌な汗が掌に滲む。じんわりと、掌に生温かい液体が広がっていく感覚を覚え、眞白は握り拳を開いた。
「……っ!?」
掌に、血が、滲んでいる。
ごしごしと擦ると、くっきりとした赤色はぼんやりと滲んでいき、傷口が露出する。
何かに切り裂かれたような傷だった。莫大な力をなんとか手中で抑えつけようとした時にできた傷。それでも抑えきれずに、風となり放出されてしまった『魔力』
また、あの時のように誰かを傷つけてしまったら。
そこまで考える余裕はなかった。けれど、本能的な恐怖が勝った。
その場から走って逃げだす。来た道を戻る。すると他にオーディションを受けに来た人に出くわす。そんな人とすれ違いそうになる度に別の道を選び、人気のない場所に入り込み、そこですべての気力を失ったかのようにずるずると座り込んだ。
ずっと走っていたし、極度の緊張状態に置かれていたから、息が切れた。脈打つスピードも速い。ゆっくりと息を吸い込もうとすると、目の端には涙が滲んだ。
「あの……大丈夫ですか?」
しばらく蹲っていたら、声をかけられた。凛とした声だった。かけられている言葉は優しいものなのに、どこか女王が進化に命令をくだすような気高さがある。
顔を上げると、木虎旭姫がいた。心配そうに眞白を覗き込んで、手を差し伸べている。
「気分が悪いなら保健室に……」
「ち、ちがい、ます」
本物の木虎旭姫に出会えた。けれど眞白が真っ先に感じたのは嬉しさでも喜びでもなく、恐怖だった。今の自分では、誰をどのように傷つけてしまうのかすら分からない。
「でも、ひどい顔色……」
周囲に何の異変も見られない内に、彼にはどこかへ行ってほしかった。
「放っておいて!」
焦燥感ばかりが募って、咄嗟に差し伸べられた救いの手を払ってしまった。
「あ……」
精神が不安定な状態にあると、『魔力』は暴走する。その正確なメカニズムは知られていないが、眞白の暴走した『魔力』は眞白の手から旭姫の手へと伝わってしまった。
彼の綺麗な手の甲と頬に切り傷ができている。
「ごめん……なさい……」
もうだめだと思った。怒らせたにしろ呆れられたにしろ、自分はここで旭姫に見捨てられる。もうオーディションに合格できるか否かというレベルではない。アイドルの資本である身体に傷を作ってしまった。それでなくても、木虎姫の事故がまだ皆の記憶に新しい以上、心の揺れやすい眞白などアイドルとしては論外だ。
「気にしないでください」
眞白が叫んだ通り、旭姫は眞白を放ってオーディション会場へ向かうものだと思った。
なのに、そうはしなかった。
「ちょっと待っててくださいね」
そう言って、持っていた鞄の中から、簡易な救急セットを取り出した。消毒液の入った小さなボトルと、ガーゼと、絆創膏。それらを手順通りに眞白の傷口に当てていく。
自分だって怪我をしているのに、そんなこと、構いもしないようだった。
「応急手当に過ぎませんから、後で保健室でちゃんとした手当を受けてくださいね。時間がなければ、オーディションの後でも大丈夫ですから」
ろくに返事もできない眞白に話しかけている間、ずっと、旭姫は笑顔のままだった。
きっと、お姫様が騎士に慈しみを見せる時など、こんな表情をするのだろう。
「はい、これで完了です」
痛くないですか? 絆創膏、ちょっとぐちゃぐちゃになっちゃったかも……。
そうひとりごちながら、旭姫は蹲っていた眞白を引っ張り上げる。ただ、それで、頑張ってね、で終わることもなかった。
「……僕は、僕達は、アイドルです。まだ正式な舞台には立てませんし、ファンと直接触れ合う機会すらありませんが、それでも、アイドルなんです」
眞白の手をとったまま、旭姫は話し続ける。
「大切な舞台の直前ですら、時には傷つき、心が揺れることもあるでしょう。それでも、これからパフォーマンスをするのだという時は、ファンが理想とするアイドルでいなくちゃならない」
それは、眞白に向けての言葉とは少し違っていた。
「アイドルの理想は、笑顔なんです。そして、僕は、僕達は、自分の笑顔と『魔法』を武器にして、ファンを笑顔にするために戦うんです」
眞白を通して、誰かを見ているようだった。眞白ではないけれど、眞白と同じくらい繊細な誰か。直接言葉を伝えたくても、もう伝えることのできない誰か。
「僕は、そんな風に一緒に戦ってくれる人を探すためにここに来ました。僕と一緒に、舞台に立って戦ってくれる人を。だから、ここで立ち止まっている場合ではないんです
……どうか、貴方がここで挫けることなく、今度はオーディション会場で、僕の前に、笑顔で立ってくれることを望みます」
そう言い残し、旭姫は踵を返し、去っていく。
「あ、あの、俺……!」
呼び止めるつもりはなく、眞白は旭姫の背中に声をかけた。
「俺、貴方に会いたくて……貴方みたいに強くなりたくて、ここに来たんです!」
眞白の独白に、旭姫はわずかに足を止めた。
「俺、貴方みたいに、強いアイドルになりたい!」
旭姫が振り向く。柔らかな風が二人の間を通り抜ける。
旭姫は何も言わなかった。眞白の言葉を、肯定も否定もしなかった。ただ、笑顔で頷いた。
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