『眞白の過去』 その1

 天井の模様が、ふやけて見える。



 眞白は泣いていた。ずっと、ずっと泣いていた。涙が止まらなかった。これではあの時と何も変わらない、臆病で弱い自分のままだ。自分を変えようと思って『Nacht』のメンバーに加えてもらったというのに、今の自分は、まるであの頃のままだ。



 あの、膝を抱えて蹲ったまま、泣くことしかできなかった子供のままだ。



 けれど、止めようと思っても、眞白の涙は次から次へと溢れ出してくる。



 あの日、自分は旭姫を侮辱されたことで怒りに身を任せ、衝動から身勝手な行動をとってしまった。そんな眞白の行動に誰よりも傷ついていたのは、他でもない、旭姫だったのに。



 それから、『Nacht』には、自宅謹慎処分がくだされた。



 こうして眞白がぐずぐずと泣くことしかできていない間に、学園長はマスコミへの対応や今後の活動への対策に追われているのだろう。



 そう考えると、立ち上がらなければならない。自分にできることは少ないけれど、それでも、ただ泣いているよりはずっといい。



 なのに、どうしても身体に力が入らない。



 犬色眞白は、本当に、ただただ涙を流すことしかできなかった。






 この現代において、「繊細」なんて二文字は褒め言葉なんかじゃない。笑顔とポジティブと前向きを愛する現代社会の風潮では、「繊細」という性質は隠さなければならないし、嘘でも「前向きに頑張りますっ!」と握りこぶしを作らなければならない。人前に出る存在、人に愛される存在、人から慕われる存在であるアイドルならば、尚更だ。



 なのに、犬色眞白は昔から「繊細」な少年だった。



 昔から、他者の些細な一言に傷ついては泣きじゃくっていた。傷ならばいつか塞がるとはいうけれど、眞白のそれは違った。心につけられた傷は治ることはなく、そのまま心の輪郭を凸凹に変形させてしまった。






 眞白には忘れられない風景がある。



 まだ母と暮らしていた頃の記憶。真夏の田舎。自分の額には汗が滲み、やがては滴り頬を濡らす。見上げた先には青空と入道雲。そして母の笑顔があった。



 犬色家は、今にして思えば、あまり裕福ではない家庭だった。眞白には母の記憶しかない。父親の顔も名前も、写真では見て知っているけれど、それは眞白にとっての記憶ではない。



 だから、眞白は、母と二人きりで暮らしていた。母は朝も夜も汗水流して働いていたように思う。けれど、幼い眞白には、母が何をしているのか分からず、残されたのは朝も夜も家にひとりきりであるという寂しさと、その寂しさに傷つく自分の心だけだった。



 その夏の日、眞白は珍しく母と一緒に出かけられるということで、朝からわくわくしていた。猛暑もピークに向かえた真夏日に出かけたのは、河原や公園といった、遊園地のようにお金がかかる場所ではないけれど、眞白にとってはそれでも十分に楽しかった。



「暑いわね、眞白」



 二人で河原を歩きながら、母はそう言って眞白に微笑む。でも眞白は暑さなんか気にならなかった。母が隣にいるというだけで嬉しく、どれだけ暑くても繋いだ手を離そうとはしなかった。



「ちょっと休憩しようか」



 そう言って、あの日の母は近くにあったコンビニに眞白を連れていった。イートインスペースの椅子に足をぶらつかせながら、眞白は母が買い物を済ませるのを待っている。右手に、ほんの数分間だけ離れてしまう温もりの寂しさを感じながら。



「お待たせ、眞白」



 しばらくして――と言っても五分もかからなかったのだろうが、幼い眞白にはそれが十分にも三十分にも感じられた――母は買い物を終えて戻って来た。そして、眞白の目の前に置かれたのは、冷たくて甘いバニラアイスクリーム。



「それを食べながら、お散歩の続きをしましょうか」



 眞白の家は、いつもはおやつなんてなかった。甘い物は、特別な日にしか食べられない特別なものだと思っていた。それが、今、眞白の目の前に、眞白が暑そうにしていたから、という理由だけで置かれている。



 幼心にも、すぐに察することができた。真夏日に、母は自分の喉を潤すアイスコーヒーよりも、眞白のためのバニラアイスクリームを選んだのだと。



「……ごめんなさい」



 すぐに溶けてしまいそうなアイスクリームなのに、眞白は手をつける気がしなかった。



「どうしたの? アイス、好きじゃなかった?」



 心配そうに眞白の瞳を覗き込む母に何と言っていいか分からず、眞白は「ちがう……ちがうの……」とただ首を横に振ることしかできない。



 自分が母の足枷になってしまったような気がした。もし自分がいなければ、母は喉の渇きを潤すことができただろう。そう考えると、自分という存在が悲しかった。



「いいのよ」



 そんな眞白の気持ちを母は汲み取ったのだろう。



「お母さんは、眞白の『ごめんなさい』よりも、『ありがとう』が聞きたいな」



 それから、また母と二人、手を繋ぎながら、帰り道を辿っていく。右手は大好きな母と繋がっている。左手には大好きなアイスクリームを持っている。



 それが、幼い眞白の甘い甘い記憶。



 母が優しいことが嬉しかった。一緒に散歩できて楽しかった。眞白の心は忙しなくふわふわと揺れ動く。



 ぼくも、おかあさんになにかしたい。



 おかあさんが「ありがとう」といってくれたら、きっと、ぼくも、うれしくなる。



「ねえ、おかあさん、みてて」



 眞白は優しい世界を想像し、願った。すると、青空には雲がかかり、涼し気な風が二人の間を通り抜けていく。



「おかあさん、すずしくなった?」



 見上げると母は驚いたように目を丸くしていた。そんな彼女を見上げる眞白も、つられてきょとんとしてしまう。それから、母は気まずそうに顔を背けてしまったので、それからの表情を窺うことは眞白にはできなかった。



 当時は分からなかったことが、成長するにつれて分かるようになった。母は、おそらく父のことを思い出していたのだ。

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