『あの日の約束』 その6
ライブを終えて、前と同じようなやり取りをしながら楽屋で着替えていると、夕がやってきた。息を切らしながら、自分に「空翔が見舞いに来てほしがっている」とだけ言った。それだけ伝えて、返事も聞かずに帰っていった。
本当は、「行かない」と言うつもりだった。それどころか、「僕が行く必要なんてない」とかなんとか、もっとひどいことを言うつもりだったのかもしれない。夕はそんな言葉を聞きたくなくて用件だけ伝えて帰っていったのかもしれない。
星影学園の男子寮にはあまり近づかないようにしている。最後に来たのは、教師に雑用を頼まれた時だったが、旭姫に八つ当たり紛いの怨恨を抱いている男子生徒と出くわしてしまって、ひどい目にあった。その時の痣も数日間消えなかった。
だから、星影学園男子寮には近づかない。よほどのことがない限り近づきたくない。そのはずだったのに。
自分にとって、空翔の見舞いというのは、そんなに重要なことだったのだろうか。
時刻は零時を過ぎた頃だろうか。寮はとうに消灯時間を迎え、しんと静まり返っている。
『Bell Ciel』のメンバーにわざわざ挨拶するつもりはなかった。足音を消して、門をそっと開ける。学園長へのちょっとしたコネでもって、寮のマスターキーを借りてきた。正確には、学園長の部屋へ侵入してちょっと寮のマスターキーを拝借してきた。後で怒られはするかもしれないが、重大な処罰が待ち受けているわけではない。普段学園長とはあまり交流はないのだが、自分が彼に甘やかされていることを旭姫は十分に知っている。
この鍵のおかげで、空翔の部屋まですんなりと忍び込むことができた。
そっと彼が寝ているベッドに近づく。熱のせいか、寝苦しそうだった。息は荒く、胸は小刻みに上下している。
額に手をあててみると熱かった。前に彼の熱をこうして手で測った時には、手がすっぽりと額を覆ってしまうほどだったのに……空翔は大きくなったんだ、なんて、無関係なことを考えてしまう自分がいる。
「……だからアイドルなんてやめろと言ったはずなのに」
小さく呟いただけなのに、空翔の瞼が震えた。
「兄さん……?」
「僕はもう、お前の兄じゃないよ」
「どうして……?」
あの日、倉庫の前で問いかけられた言葉を、再びぶつけられる。そこにはあの時の遠慮なんて微塵もなかった。熱のせいか、感情をコントロールできていないのだろう。
「どうして、兄さんは、俺の兄さんじゃなくなったの……」
二人が兄弟ではなくなったあの日も、空翔は、こんな風に寝込んでいた。
「俺……俺だけ……何も知らなかった……」
寝込んでしまって、病院に運ばれて、目を覚ましたら、家族は誰もいなくなっていた。父も母も事故で亡くなったとだけ聞かされた。退院した時には兄すらおらず、兄弟はそれぞれ別々の家に引き取られることが決まったとだけ聞かされていた。
最初は泣いてばかりいた。いつも一緒にいた兄が隣にいなくなったこと。兄ともう遊べなくなったこと。そんなことばかりを考えては泣いていた。
やがて流す涙もなくなった時、気づいてしまったのだ。「どうしてだろう」という疑問に。
どうして兄は自分との約束を破ってしまったのか。
どうして兄は自分を置いてどこかへ行ってしまったのか。
「兄さん、教えて……俺は、知りたいんだよ……」
目の前にいるのが、本物の兄かどうか、空翔には分からなかった。呼んできてくれと夕に頼み、請け負ってもらったけれど、今の兄が、『Nacht』のセンター、木虎旭姫として生きている兄が、今の空翔の頼みを聞いてくれるかは分からなかった。
だから、こうして自分を優しい眼差しで見つめてくれる兄は、熱が見せた都合のいいが幻想なのではないかと、空翔は考えている。
幻想だったら、ぶつけてもいい。おそらく何らかの思慮を見せて兄は自分のもとから去っていったのだろう。兄が優しい人であったことを、空翔はよく知っていた。だから、彼への問いかけにはいつも躊躇いが付随した。でも、幻想だったらそんな風に気遣うことは何もない。
「お前は何も知らなくていい」
幻想だからと言って、回答までは自分の都合よく示してはもらえないらしい。当然だ。空翔が作り出した幻なら、空翔が知っていることしか知らないのだから。
「……知ると、俺が傷つくから?」
これが核心だと思っていた。思っていたのに、その核心はいとも容易く旭姫をすり抜けるだけだった。旭姫は静かにかぶりを振っただけだった。
「兄さん……っ」
熱に浮かされた身体の倦怠感よりも、胸の痛みの方が勝った。涙が一粒、頬を伝って落ちていく。それを見て旭姫は目を逸らした。
優しい兄だった。弟が泣けば、すぐに駆け付けてくれた。だから、たくさんワガママを言った。
ある日、星が見たいと言ったことがある。数十年に一度訪れる流星群の日で、その日の空翔は風邪を引いて寝込んでいた。ずっと、身体の弱い子供だった。
なのにどうしても星が見たいと、流れ星にお願い事がしたいと、自分は駄々をこねた。兄は幾重にも自分に重ね着をさせて、その上からさらに毛布まで巻いて、一緒にベランダへと出た。熱のせいかもしれないが、外は寒くなんかなくて、温かかった。
その日、自分は夜空を流れていく星に願った。兄と一緒にアイドルになりたい。母みたいに、泣いてる人も笑顔にできる、素敵なアイドルになりたい。美しい空を見ながら、ひそかに誓いを立てた。もっとも、普段から自分は暇さえあれば口に出していた願い事なので、兄には何を願っているかバレバレだっただろうけれど。
次の日、自分は風邪を悪化させて、兄は父に怒られていた。その時にも、彼は言い訳一つしなかった。泣くことすらしなかった。本当のことを話そうと無理にベッドから起き上がれば、「まだ寝てろ」と兄が空翔を叱る始末だった。まだ納得いかないという顔の空翔の耳元で、旭姫は「お前の願い、一緒に叶えような」と囁いてくれた。
「どうして……?」
約束、してくれたのに。
子供同士の他愛ない口約束だったかもしれない。でも、あの日の自分は、兄がその約束を叶えてくれると信じて疑わなかった。
なのに、兄は自分を置いて去っていった。今はもう、兄弟でも何でもなくなってしまった。
自分を置いて出て行った兄が、アイドルを目指していることを、書店で売られていた雑誌の特集で知った。そこに掲載された写真の中で、兄は「ソルシエに最も近い者達」と讃えられた三人で、肩を抱き合って笑っていた。
天使の微笑と称される笑顔を見せる兄は、まるで自分の知らない人のようだった。悪魔がすり替わっているのだと言われたら、本当に信じてしまいそうなくらいに。
それでも、学園内で再会した兄と話せば、あの日の面影が見えた。
あの日以来、夜空に瞬く星に願ったことなんてなかったはずなのに、柄にもなく、もう一度願ってしまった。
「どうして、目も合わせてくれないの……?」
その言葉に、旭姫は一瞬「しまった」というような表情を見せ、視線を泳がせた。けれどその視線すら、空翔と合うことはなかった。
目を合わせてくれれば、自分の気持ちは分かってもらえるはずだと思っていた。
置き去りにしていった兄が許せないんじゃない。
リハーサルの時、兄を見た時に感じたのは、怒りでも憎しみでもなかった。再会の喜びだった。
その時に初めて知った。自分は全てが知りたいだけだ、全てを知って、兄と一緒の舞台に立ちたいだけなんだ、と。
「……俺は、あの日の夢……もう一度、叶えたいんだ……ずっと、兄さんと、一緒がいいんだ……なのに……っ、俺は、何も知らない……、兄さんが俺を置いて行った理由を、何も……」
「お前は何も知らなくていい」
やけにきっぱりとした声だった。はっきりと耳に届いた。そこに込められた感情は見えない。だから、冷たい拒絶の言葉を覚えた。胸が痛い。涙が止まらない。苦しい。
「兄さんはいつもそうだ……自分ひとりで全部背負うつもりなんだ……」
あの日、本当は自分も父に叱られるべきだったのだ。兄弟二人で、自分は風邪気味なのに外に出て行って、兄は弟を甘やかしてしまって、ごめんなさいを言うべきだったのだ。
「全部自分で背負うから……俺は、寂しくなるんだ……」
その言葉に、返事はなかった。ただ旭姫が椅子から立ち上がる音だけが、空翔の耳に届いた。
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