朝のニュースによると、今日も一日暑くなりそうだった。

 テレビ画面の向こうでは、気象予報士がにこやかな笑顔でそれを告げている。明日世界中が大洪水に見舞われるとしても、その笑顔は変わらないのかもしれなかった。

 ナツはリビングのソファに座って、ぼんやりとそれを眺めている。時刻はすでに、学校に行く時間を過ぎようとしていた。何だかそれは、奇妙な感じだった。知らないうちに、体の一部をどこかに忘れてきてしまったような気がする。

 けれど奇妙といえば、もっと奇妙なことがあった。

 ナツの座っているソファの隣には、ソラがちょこんと腰かけている。着るものがないせいで、ソラはまだナツのパジャマ姿という格好のままだった。

 確認したところによると、ソラはテレビというものを見たことがないらしく、興味津々といった様子でその映像を見つめていた。ナツにはテレビのない家というのがうまく想像できなかったが、実際にそうだというのだからそうなのだろう。

(けど……)

 ナツが奇妙だと思うのは、もちろんそんなことではない。

 奇妙なのは、そこに透村穹という少女が座っていて、しかもそれにまるで違和感というものが感じられないことだった。この少女はずっと昔からそこにいる、という自然さで存在していた。

 どこか、狐か狸に化かされているようでもある。

「何だかな……」

 ナツは首を大きく曲げて、天井を仰ぎ見た。自分でもよくわからない種類のため息が口からもれる。

「ナツ」

 その時、不意にソラが呼びかけてきた。ナツは首を戻して、ソラのほうを見る。

「何だ?」

「駅まで荷物を取りに行きたいんだが」

 それが癖なのか、ソラはどこかの大学教授みたいな口のききかたをした。

「荷物……?」

 よくわからないので聞いてみると、ソラは着替えやら細々とした日用品やらをバッグに詰めて持ってきたのだという。それは今、駅のコインロッカーに預けられているということだった。

「昨日のうちに持ってくればよかったのに」

 とナツが言うと、「まだ泊めてもらえるかどうか、わからなかった」とソラは答えた。もっとも話ではある。

「じゃあ、まずはその荷物を取りにいくか。大体の場所とかは覚えてるよな?」

「ああ、心配ない」

 二人でそんな話をしていると、台所のテーブルから桐子が声をかけてきた。

「あら、二人で駅まで行くの?」

「ソラの荷物を取りにね。服とか、そういうの」

「服くらい買ってあげるのに。というか、私がコーディネートしてあげたかったんだけど」

「はいはい」

 慣れているので、ナツは適当にあしらっておく。

「駅まで送ってあげたいところだけど、仕事があるからちょっと無理ね。バス代は置いておくから、あとはナツのほうでよろしく。荷物があると、自転車じゃ無理でしょ?」

「了解」

「ソラちゃんの服は、あんたが昔着てたので間にあわせられるかしらね……まあ、パジャマよりはましでしょ」

 言われて、ソラはぶかぶかのパジャマの袖を掲げてみる。

 桐子はいったん別の部屋に行って、プラスチック製の衣装ケースを持ってきて二人の前に置いた。中には、もう着れなくなったナツの古着が入れられている。

「じゃあ、そういうことだから、あとはよろしくねナツ」

 そう言って桐子が出かけてしまうと、家の中は急にがらんとした雰囲気になった。機械の中から、一番重要な部品が抜き取られてしまったみたいに。

 衣装ケースの蓋を開けると、二人はその中から適当な服を選びだした。どれも男の子用のものだが、とりあえず不都合ということはない。結局、ハーフパンツにTシャツという格好に決まった。ナツは少し考えて、帽子をかぶせてやる。見ためとしては、悪くない。

「――それじゃ、行くか」

 準備が済むと、ナツはちょっと面倒くさそうに言った。

 ソラはその時にはすでに、玄関にいて靴を履きかえている。

「早く行くぞ、ナツ」

 と、この少女はひどく元気そうだった。

「やれやれ」

 ナツはため息をつくようにして、そのあとに従った。


 二人は近くのバス停まで歩いていくと、ベンチに座ってバスが来るのを待った。

 いつもなら会社員や学生が並んでいるそのバス停には、時刻が遅いのと夏休みのせいもあって誰もいない。あたりは変に静かで、車もほとんど通らなかった。二人の座っているベンチはちょうど日陰になっていたが、暑いことに変わりはない。

 ナツの隣で、ソラは相変わらず物珍しそうにあたりを眺めていた。この少女には、そんな当たり前の光景も、異国情緒あふれたものに見えているのかもしれない。

 ほどなくして、バスが停留所までやって来た。古時計みたいなぎこちなさで停車すると、接客態度が良いとはいえない乱雑さで後部のドアが開く。

 ナツが後ろの乗り口をあがって整理券を取ると、ソラもちょっと戸惑いながら同じことをした。入口近くの席に座ると、ソラもその隣に腰を落ちつける。

 ブザーが鳴って扉が閉まると、バスは律儀なくらいの緩慢さで発進した。冷房の効いた車内に、人の姿はほとんどない。

 窓の外で景色が流れはじめると、

「これは何だ?」

 と、ソラがさっきの整理券をナツのほうに向けている。

「整理券」

 ナツはそっけなく答える。

「わからん」

「つまり、それでどこから乗ったかわかるわけだ」ナツは説明してやった。「前の掲示板に料金が書いてあって、その整理券の番号のところの値段を払うんだよ」

 ソラは整理券と電光掲示板を交互に見比べていたが、しばらくして「なるほど」と感心したように言った。理解したらしい。

 そのあいだも、バスの外では風景が何の支障もなく通りすぎていった。まるで、水でも流れていくみたいに。

 ナツはそんな景色を眺めながら、

「――一つ、聞いてもいいか?」

 と、ふと思いついたようにして訊ねている。

 ソラはバスの中をきょろきょろと見まわしていたが、言われてナツのほうに顔を向けた。

「もしかしてお前、誰かに追われてるんじゃないのか……?」

 それは、何気ないセリフだった。言ったあとで、冗談だよ、と笑ってすませてしまえるような。

 けれど――

 ソラはそれを聞いて、黙ってしまっていた。

「……そうか」

 予想していたこととはいえ、ナツは反応に困った。ナツは別に、ソラのことを非難しているわけでも、迷惑に思っているわけでもない。それでも、そのことが意味するのは、冗談で片づけるわけにもいかないことだった。

「――どうして、そう思ったんだ?」

 ソラはしばらくして、そんなことを訊いた。嘘をつくにはこの少女は純粋で、たぶん――脆すぎるのだろう。不安のためか、ソラはかすかに身を小さく、固くしていた。

「前にそういう二人に会ったことがあるんだよ」

 ナツは何気ない口ぶりで、そのことを説明した。

「小学生くらいの女の子を探してるっていう二人組に。その二人は魔法使いらしくて、探しているのも魔法使いらしかった。おまけに、予言が関係しているって話だ。となれば、いかにも怪しげな女の子がいれば、もしかしたらとは思うだろうな。あくまで可能性の問題としては、だけど」

 ソラはじっと黙ったままそれを聞いていたが、やがて何かを決意するように口を開いた。

「たぶん、その二人が探しているのは私のことだと思う」

「……曖昧だな」

 ナツが言うと、ソラはちょっと困ったように首を振って、

「よくはわからない。でも、おそらくは間違いないはずだ」

「少なくとも、心当たりはあるわけだ?」

 訊くと、ソラはこくりとうなずいてみせる。

 その時、バスが停留所の一つでとまっている。一人だけ降りて、乗る人間はいない。バスは大儀そうに、またゆっくりと走りはじめた。

「あの予言は、時系列で並んでいるんだろう?」

 と、ナツは確認するように言った。

「そうだ」

「だとすると、あの予言に関わる魔法使いが五人いることになる」

 ソラは不思議そうな顔をした。

「――二つめの予言に、そう書いてある」

 とナツは説明した。

「〝無言劇に興じる五人の道化師たち〟――無言劇パントマイム、つまり言葉を使わない、使えない、というわけだ。それは魔法使いのことを意味しているんだろう。それが、五人。〝照明は白くならず、背景は黒くならず〟――光が混じると白に、色が混じると黒になる。だからそうはならない、つまりしばらくは何も起きない、ということなのかもしれない。この辺は何とも言えないけどな」

 ナツは比較的、どうでもよさそうなものの言いかたをした。どんな時も、この少年はあまり深刻な態度をとろうとはしない。

 けれどソラとしては、そんなわけにはいかなかった。かすかにうつむいたまま、この少女は固いガラスに罅が入るような口調で言っている。

「……私のこと怒っているのか?」

 たぶんそれは、とても勇気のいる問いかけだった。いたずらをした子供が、自分から罪を告白するような、そんな。けれど、それを聞かずにすますには、透村穹という少女はあまりに純粋で、自分の心に対して正直すぎるのだろう。

 二人は視線を交わすこともないまま、ただ黙っていた。バスの車内放送が次の停留所を告げる。目的地までは、まだ少しあった。

「――いや」

 と、ナツは言った。

「?」

「別に怒ってないし、なじったりするつもりもない。ただちょっと、呆れてるだけだよ。何というか、運命みたいなものに」

「…………」

「僕としては、このままで構わない。追われていようがいまいが、今さら放りだすわけにもいかないしな。それにうちの親が何て言うか、わかったもんじゃない」

 ナツは心底うんざりしたような表情を浮かべて、ソラにはそれが少しおかしかった。ナツは、言葉を続けた。

「それにこれは、どうせ予言されたことなんだろう? だったら、抵抗なんてしても無駄だよ。憐れな王様は結局、父親を殺してしまうんだ……まあ、夏休みのあいだの暇つぶしくらいにはなるかもな」

 そう言って、ナツはちょっとだけ笑ってみせる。冗談のように、ごく自然に。

「うん――」

 ソラはほんの少しだけうつむいたまま、

「――ありがとう、ナツ」

 と、うなずいている。

 ナツはその言葉を聞いているような、いないようなふりをした。


 終点の天橋駅に着くと、二人はバスを降りた。地面に足を着けると、何かの生き物みたいに暑さがまとわりついてくる。見あげると、青い空には誰かが念入りに磨きあげたらしい太陽が浮かんでいた。

 バスターミナルには人が多く、混雑していた。やって来たバスに、工場の生産ラインみたいにして人々がすいこまれていく。

 ナツとソラはターミナルをあとにすると、駅の入口に向かった。途中、駅にある大時計の前を通る。

 それは和風をコンセプトにした、黒と金を基調にデザインされた時計だった。文字盤には数字のほかに、十二支が並んでいる。干支の部分は季節によって、その間隔が変化する仕組みになっていた。不定時法に従って、昼と夜の長さを表しているのである。

 二人が時計を眺めると、その針はちょうど十二時のところで止まっていた。近くに注意書きがあって、「一部機能に問題が発生したため、只今一週間の予定で点検修理中です」と記されている。

「〝時計の螺子〟だ」

 と、不意にソラが言った。

「あ?」

 ナツが聞き返す。

「忘れたのか、一つめの予言だ。〝サンドリヨンの魔法が解けることはない〟――サンドリヨンはシンデレラのことだ。魔法が解けるのは、十二時。でもそれは今、止まっている」

「……なるほど」

 あらためて、ナツは時計を眺めてみた。よく見ると、針は十二時のぎりぎり手前で止まっているらしい。これなら舞踏会から慌てて逃げだすこともないだろう。

「確かに、予言通りらしいな」

 ナツが認めると、ソラは簡単にうなずいた。当然だ、と言いたいのかもしれない。

 駅の構内に入ると、空調のおかげで暑さはどこかへ行ってしまった。高い天井と広い空間には神殿のように柱が並んでいて、そのあいだを大勢の人が行き来している。

「荷物はどこにあるんだ?」

 ナツが訊くと、ソラは何か思い出すようにじっとしている。

「――確か、こっちだ」

 歩きだしたのは、駅とショッピングモールをつなぐ連絡通路のほうだった。その途中、通路の脇に蜂の巣みたいなコインロッカーが並んでいる。

 ソラはその前で足をとめると、ポケットから鍵を取りだした。同じ番号のロッカーに鍵を入れると、問題なく開く。少し大きめのバッグを、ソラはちょっと苦労して引っぱりだした。

「間違いないよな?」

 ナツは念のために訊いた。

「当たり前だ」

 言いながら、ソラは一応中身を確認している。

 バッグの中には主に衣類関係のものが詰めこまれていたが、中には年季の入った黄色いクマのぬいぐるみもあった。そういうところを見ると、異常に大人びたこの少女にも、ちゃんと子供らしいところがあるのだとわかって、ナツは何となくほっとしてしまう。

 その時――

 ふと視線を感じたような気がして、ナツは顔をあげた。

 あたりを見まわすと、駅のほうに向かうらしい人が、歩きながらこちらを眺めていた。スーツ姿をした、髪の短い二十代くらいの女性である。コインロッカーの前に子供が二人いるというのは、確かに注意を引く光景かもしれない。

 けれどナツは、それだけにしては妙な違和感を覚えていた。あの表情に含まれているのは、そんなことだけではないような――

 とはいえ、その違和感を確かめる前に女性は行ってしまっている。その女性はすぐ人ごみにまぎれて、ナツにはどうすることもできなかった。

(……気にしすぎかもな)

 ソラとあんなことを話したばかりだから、少し神経質になっているのかもしれない、とナツは思った。どう考えても、ただの通行人であるその女性に怪しいところなどなかったのだから。

 ――当然な話ではあるけれど、それが予言に関わる魔法使い〝五人の道化師たち〟の一人なのだとは、ナツには気づきようもなかったのである。

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