その日の夜、ナツは自室で、ソラはリビングに布団を用意して寝床にしていた。

「…………」

 ナツは何となく寝つけないまま、暗い天井を見あげている。そこには蛍光灯のかすかな輪郭だけが、ぼんやりと浮かんでいた。どこか遠くで、誰にも聞いてもらえなかった繰り言みたいな、弱々しいエンジン音が聞こえた。

(変な話だな……)

 寝返りをうって、ナツは体を小さくたたんだ。今日一日のことを考えると、軽い混乱のようなものを覚えてしまう。いったいどうして、こんな事態になってしまったのだろう。予言、運命、半分の魔法使い――

 笑顔というには、あんまりにも透明すぎる表情――

 強くて、そのくせひどく脆そうな瞳――

 何故だかあの少女のそんなところばかりが、ナツの頭から離れなかった。

 しばらくすると、ナツはため息をついて起きあがった。水でも飲んでこようと思ったのだ。このままだと、眠れそうにない。

 ドアを開けて、キッチンに向かう。ナツは当然、ソラの寝ているリビングを通らなくてはならなかった。

 リビングは常夜灯の小さな光に照らされて、もの言わぬ薄闇がぼんやりと広がっていた。部屋の隅やテーブルの陰には、人の気配を避けるようにして暗闇が息を潜めている。ナツは眠っているソラを起こさないように、慎重な足どりで流しに向かった。コップを取って、半分くらいの水を飲む。

 その時、妙な音が聞こえた。

 何だかよくわからない、空気の管の詰まるような音である。不規則に、何かが小さく壊れるみたいに音が響いている。けれどその正体は、すぐに判明した。

 ソラが、泣いているのだ。

 できるだけ足音を立てないように、ナツはソラの眠っている場所に近づいた。薄闇は空気に押しだされるみたいにして、速やかにその位置を変える。

 少し大きめの布団の中で、ソラは目をつむっていた。その両目からは、涙が零れて跡になっている。時々、深い井戸の底に石ころでも落とすみたいにして、その口からは小さな嗚咽がもれていた。

 この少女は、親も家族さえもなくて、何のためかはわからないが一人で家を離れて、見も知らぬ家の居間でこうして眠っている。音もない暗闇の、馴染みのない空間の中で。守ってくれる人間も、頼りになるものもないまま。

 透村穹というこの少女は――

 どうしようもなく、世界に一人ぼっちだった。

(たぶん……)

 と、ナツは思った。

 この少女には、泣く権利があるのだろう。大声をあげて、喉が裂けるくらいに喚いて、世界の理不尽さを糾弾する権利が。

 けれどこの少女は――

 こんなにも小さな泣き声を、夢の中でもらしているだけなのだ。

 ナツはそっと、その涙を拭ってやった。ソラは何も気づかないまま、おそらくは悲しい夢を見続けている。そこは誰の助けも届かない場所だった。

 部屋に戻ると、ナツは机の前に座ってスタンドライトをつけている。まぶしさに一瞬目をつぶってから、ナツは赤と黒のマジックを用意し、引きだしから目的の物を取りだした。限定された光の中で、ナツはあるものを描きはじめた。


 ソラは眠りながら、いつのまにか夢の光景が変わっていることに気づいた。

 いつもは、怖い夢を見るのだ。みんなが電車に乗って、自分だけが駅に置いていかれるような、そんな夢を。名前も場所もわからないホームに立ったまま、ソラはそこから出ていくことも、電車を追いかけることもできずにいる。そして目覚めたときには、必ず呼吸が苦しくなって頬が少し濡れている。

 けれどその日、夢は途中からいつもと違っていた。一人ぼっちで取り残された駅のホームに、新しく電車がやって来たのだ。ソラがそれに乗ると、電車はどこかの動物園に到着している。そこでは動物たちはみんな檻の外にいて、ソラに向かって「踊りませんか?」と誘ってくるのだった。ゾウもキリンもカバも、みんな二本足でくるくると踊っていた。その光景はひどく愉快で、滑稽で、思わず笑いださずにはいられない――

 ――目が覚めてからも、ソラは何だかおかしくて笑ってしまった。

 そしてそんなふうに笑うことが、ひどく久しぶりだということに気づいている。

(いつからだろう……)

 最後に笑ったのがいつだったか、ソラは記憶の中を探ってみた。あれは祖父が死ぬ、どれくらい前のことだったろう――

 そんなふうにして小さく膝を抱えていると、ソラはふと枕元に何かが置いてあるのに気づいた。白いプラスチック製で、いくつかでっぱりのある円形をしていた。見ためには、懐中時計に似ている。

「――?」

 拾いあげて、ソラは蓋らしきところを開けてみた。

 それは、コンパスだった。八つの突起は太陽を表していて、中の盤面に三日月がデザインされている。磁針の先には色違いの星が二つ配置されて、流れ星みたいに小さく揺れていた。開いた方位磁石の蓋には、何かが描かれている。のぞきこむと、それが何なのかわかった。

 ――天使の、絵だ。

 パウル・クレーに似た感じの、単純な線で構成された記号的な絵だった。天使はうつむいて、両手に抱えたハートを見つめている。おなじみの心臓型をしたマークは、そこだけが赤色で描かれていた。

 その姿はどこか、子守唄を歌う母親の姿に似ている。

 しばらくのあいだ、ソラはじっとその絵を見つめていた。まだ朝もはじまらないその時間に、小さな少女はじっとその絵を――

 カーテンの向こうからは灰色の光が射して、常夜灯の光も溶けかけたように薄れはじめていた。ソラは起きあがると、ナツに借りた大きめのパジャマを引きずるようにして、少年の部屋に向かった。

 それから音のしないように扉を開け、イスのところにそっと座る。

 ナツはベッドの上で、まだ静かな夜の眠りにあった。

「――――」

 そうしてソラがぼんやりしていると、ナツはいつのまにか目を覚ましている。ソラのことに気づいても、この少年は驚きも怒りもしなかった。

「今、何時だ?」

 とナツは訊いた。

「――五時半」

「早いよ」

 苦笑して、ナツはまだ少し眠そうにあくびをする。そのあくびを噛み殺すようにして起きあがりながら、

「どうかしたのか?」

 と、ナツは訊いた。枕元の眼鏡をかける。

「これ、お前がくれたんだろう?」

 そう言って、ソラは小さな手に乗せたコンパスを示してみせた。

「――ああ」

 とナツは簡単にうなずいている。

「おかげで、怖い夢を見ずにすんだ。礼を言う」

「それはどういたしまして……」

 ナツはちょっと笑ってから、

「そういう魔法を使ったからな」

 と、種明かしをした。

「魔法?」

「ああ、そういう魔法が使えるんだよ、僕は。記号の意味を現実化するような魔法が。それは自分の居場所を示すコンパスに、魂を守ってくれる〝天使〟を描いた」

「そうか――」

 と、ソラは何かを考えるように手の中のコンパスを見つめていたが、

「ナツは優しい魔法が使えるんだな」

 真顔で、そんなことを言った。

 ナツはそれを聞くと、思わず吹きだしてしまっている。

「お前には似あわないな、そんなセリフ」

「何だそれは、せっかく人が誉めてやっているのに……!」

 頬を膨らませて、ソラは極めて遺憾の意を示した。

 ナツはその顔を見るとますます笑ってしまい、ソラはますます不満そうな顔をした。この少女にも、そんな子供っぽいところがあるらしい。

 ――もうすぐ、一日がはじまろうとしている。

 例えそれが、どんな運命を予定しているにしろ、新しい一日が。

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