8
その日の夜、ナツは自室で、ソラはリビングに布団を用意して寝床にしていた。
「…………」
ナツは何となく寝つけないまま、暗い天井を見あげている。そこには蛍光灯のかすかな輪郭だけが、ぼんやりと浮かんでいた。どこか遠くで、誰にも聞いてもらえなかった繰り言みたいな、弱々しいエンジン音が聞こえた。
(変な話だな……)
寝返りをうって、ナツは体を小さくたたんだ。今日一日のことを考えると、軽い混乱のようなものを覚えてしまう。いったいどうして、こんな事態になってしまったのだろう。予言、運命、半分の魔法使い――
笑顔というには、あんまりにも透明すぎる表情――
強くて、そのくせひどく脆そうな瞳――
何故だかあの少女のそんなところばかりが、ナツの頭から離れなかった。
しばらくすると、ナツはため息をついて起きあがった。水でも飲んでこようと思ったのだ。このままだと、眠れそうにない。
ドアを開けて、キッチンに向かう。ナツは当然、ソラの寝ているリビングを通らなくてはならなかった。
リビングは常夜灯の小さな光に照らされて、もの言わぬ薄闇がぼんやりと広がっていた。部屋の隅やテーブルの陰には、人の気配を避けるようにして暗闇が息を潜めている。ナツは眠っているソラを起こさないように、慎重な足どりで流しに向かった。コップを取って、半分くらいの水を飲む。
その時、妙な音が聞こえた。
何だかよくわからない、空気の管の詰まるような音である。不規則に、何かが小さく壊れるみたいに音が響いている。けれどその正体は、すぐに判明した。
ソラが、泣いているのだ。
できるだけ足音を立てないように、ナツはソラの眠っている場所に近づいた。薄闇は空気に押しだされるみたいにして、速やかにその位置を変える。
少し大きめの布団の中で、ソラは目をつむっていた。その両目からは、涙が零れて跡になっている。時々、深い井戸の底に石ころでも落とすみたいにして、その口からは小さな嗚咽がもれていた。
この少女は、親も家族さえもなくて、何のためかはわからないが一人で家を離れて、見も知らぬ家の居間でこうして眠っている。音もない暗闇の、馴染みのない空間の中で。守ってくれる人間も、頼りになるものもないまま。
透村穹というこの少女は――
どうしようもなく、世界に一人ぼっちだった。
(たぶん……)
と、ナツは思った。
この少女には、泣く権利があるのだろう。大声をあげて、喉が裂けるくらいに喚いて、世界の理不尽さを糾弾する権利が。
けれどこの少女は――
こんなにも小さな泣き声を、夢の中でもらしているだけなのだ。
ナツはそっと、その涙を拭ってやった。ソラは何も気づかないまま、おそらくは悲しい夢を見続けている。そこは誰の助けも届かない場所だった。
部屋に戻ると、ナツは机の前に座ってスタンドライトをつけている。まぶしさに一瞬目をつぶってから、ナツは赤と黒のマジックを用意し、引きだしから目的の物を取りだした。限定された光の中で、ナツはあるものを描きはじめた。
ソラは眠りながら、いつのまにか夢の光景が変わっていることに気づいた。
いつもは、怖い夢を見るのだ。みんなが電車に乗って、自分だけが駅に置いていかれるような、そんな夢を。名前も場所もわからないホームに立ったまま、ソラはそこから出ていくことも、電車を追いかけることもできずにいる。そして目覚めたときには、必ず呼吸が苦しくなって頬が少し濡れている。
けれどその日、夢は途中からいつもと違っていた。一人ぼっちで取り残された駅のホームに、新しく電車がやって来たのだ。ソラがそれに乗ると、電車はどこかの動物園に到着している。そこでは動物たちはみんな檻の外にいて、ソラに向かって「踊りませんか?」と誘ってくるのだった。ゾウもキリンもカバも、みんな二本足でくるくると踊っていた。その光景はひどく愉快で、滑稽で、思わず笑いださずにはいられない――
――目が覚めてからも、ソラは何だかおかしくて笑ってしまった。
そしてそんなふうに笑うことが、ひどく久しぶりだということに気づいている。
(いつからだろう……)
最後に笑ったのがいつだったか、ソラは記憶の中を探ってみた。あれは祖父が死ぬ、どれくらい前のことだったろう――
そんなふうにして小さく膝を抱えていると、ソラはふと枕元に何かが置いてあるのに気づいた。白いプラスチック製で、いくつかでっぱりのある円形をしていた。見ためには、懐中時計に似ている。
「――?」
拾いあげて、ソラは蓋らしきところを開けてみた。
それは、コンパスだった。八つの突起は太陽を表していて、中の盤面に三日月がデザインされている。磁針の先には色違いの星が二つ配置されて、流れ星みたいに小さく揺れていた。開いた方位磁石の蓋には、何かが描かれている。のぞきこむと、それが何なのかわかった。
――天使の、絵だ。
パウル・クレーに似た感じの、単純な線で構成された記号的な絵だった。天使はうつむいて、両手に抱えたハートを見つめている。おなじみの心臓型をしたマークは、そこだけが赤色で描かれていた。
その姿はどこか、子守唄を歌う母親の姿に似ている。
しばらくのあいだ、ソラはじっとその絵を見つめていた。まだ朝もはじまらないその時間に、小さな少女はじっとその絵を――
カーテンの向こうからは灰色の光が射して、常夜灯の光も溶けかけたように薄れはじめていた。ソラは起きあがると、ナツに借りた大きめのパジャマを引きずるようにして、少年の部屋に向かった。
それから音のしないように扉を開け、イスのところにそっと座る。
ナツはベッドの上で、まだ静かな夜の眠りにあった。
「――――」
そうしてソラがぼんやりしていると、ナツはいつのまにか目を覚ましている。ソラのことに気づいても、この少年は驚きも怒りもしなかった。
「今、何時だ?」
とナツは訊いた。
「――五時半」
「早いよ」
苦笑して、ナツはまだ少し眠そうにあくびをする。そのあくびを噛み殺すようにして起きあがりながら、
「どうかしたのか?」
と、ナツは訊いた。枕元の眼鏡をかける。
「これ、お前がくれたんだろう?」
そう言って、ソラは小さな手に乗せたコンパスを示してみせた。
「――ああ」
とナツは簡単にうなずいている。
「おかげで、怖い夢を見ずにすんだ。礼を言う」
「それはどういたしまして……」
ナツはちょっと笑ってから、
「そういう魔法を使ったからな」
と、種明かしをした。
「魔法?」
「ああ、そういう魔法が使えるんだよ、僕は。記号の意味を現実化するような魔法が。それは自分の居場所を示すコンパスに、魂を守ってくれる〝天使〟を描いた」
「そうか――」
と、ソラは何かを考えるように手の中のコンパスを見つめていたが、
「ナツは優しい魔法が使えるんだな」
真顔で、そんなことを言った。
ナツはそれを聞くと、思わず吹きだしてしまっている。
「お前には似あわないな、そんなセリフ」
「何だそれは、せっかく人が誉めてやっているのに……!」
頬を膨らませて、ソラは極めて遺憾の意を示した。
ナツはその顔を見るとますます笑ってしまい、ソラはますます不満そうな顔をした。この少女にも、そんな子供っぽいところがあるらしい。
――もうすぐ、一日がはじまろうとしている。
例えそれが、どんな運命を予定しているにしろ、新しい一日が。
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