7
母親が帰ってきたのは、いつもより少し遅い時間だった。
そのあいだにナツは、ソラについていくつかのことを確認している。年齢や、住んでいた町、生活環境といったことを。
ソラは小学四年生で、天橋市からはかなり離れた
それらのことを確認していくと、ソラの言った「もう親も家族もいない」という言葉の意味は、やはりそのままのものだということもわかった。みなしご、というのだろうか。家族がいなくなった原因については聞いていない。
しかしそれならそれで、施設に預けられるなり、親戚に引きとられるなり、とりあえずの処置のようなものがあるはずだった。一人で家出をして、わざわざ遠くの町にまでやって来る理由がわからない。ナツがそう訊くと、
「事情があるんだ」
と答えるばかりで、ソラは詳しく語ろうとしなかった。
ナツとしては不満の残るところだが、こうして家に連れてきてしまった以上、もうどうすることもできなかった。
「ただいま――」
やがて家の扉が開いて、そんな声が聞こえている。ほどなくリビングに現れた久良野桐子は、土産ものらしきケーキの箱を抱えていた。
久良野桐子は髪をきれいになでつけた、知的な感じの女性だった。全体の姿はあくまでも自然体なものだったが、仕事に関しては有能そうな雰囲気をしている。しゃれた感じの眼鏡をかけていて、目元のあたりがナツとよく似ていた。
ナツの母親である彼女は、博物館で非常勤のスタッフとして働いている。いわゆる、学芸員というやつだった。
桐子が姿を見せると、ソラは立ちあがって丁寧に挨拶した。
「はじめまして、ナツのお母さん。私は透村穹といいます」
「ソラちゃん?」
言って、桐子はソラの前にかがみこんでいる。
「いい名前ね。はじめまして、私は久良野桐子。ナツの不肖の母親です」
桐子はにっこりと笑った。ひまわりの花か何かのような、そんな笑顔である。
それから彼女は、持ってきたケーキの箱をテーブルの上に置いた。
「ねえソラちゃん、よければケーキはどう? 紅茶もつけるわよ」
「いいんですか?」
「もちろん。さあ、どうぞ好きなのを選んでね」
ソラがケーキの一つを選ぶと、桐子は台所のほうにまわって皿やフォークを用意しはじめた。ナツが手伝いのために同じ側にまわる。
「可愛い、いい子じゃない。どこで知りあったの、ナツ?」
桐子はどこかうきうきした様子をしている。
「……子供の秘密だよ」
ナツはそう、面倒そうに答えた。詳しい話などできるはずがない。
準備ができると、三人はケーキと紅茶を置いたテーブルを囲んだ。ソラが選んだのは、パンプキンタルトだった。桐子はその横で、ソラがタルトを口にするのを幸せそうに眺めている。
「ソラちゃんは、しばらく家に泊まりたいんでしょ?」
「――うん」
ちょっと不安そうな表情のソラに対して、桐子は笑顔を浮かべたままで言った。
「いいわよ、いつまででもいてね。私ね、ソラちゃんみたいな可愛い女の子がいてくれたらって、ずっと思ってたのよ」
「……本当に?」
「ええ、本当に。天地神明に誓って、嘘偽りなく」
桐子はにこにことして、宣誓証明でもするみたいに右手を掲げている。するとソラのほうでも、それに感染したように笑顔を浮かべた。桐子が本心からそう言っているのだと、十分に信じられたからだろう。
「――母さん」
そのやりとりが終わったところで、ナツは母親に対して呼びかけた。
「何よ?」
ソラから視線を外して、桐子は邪険そうな顔をしている。
「ちょっと話があるんだけど、よろしいですかね?」
「よろしくないわよ、私、今人生で最大の幸福を味わってるんだから」
「大事な話なんだよ」
「仕方ないわね」
桐子がそう言って立ちあがると、ナツは先にたって歩きはじめた。後ろではソファに座ったままのソラが、ちょっとうかがうように二人のことを見つめている。
ナツは自分の部屋までやって来ると、桐子を中に入れてドアを閉めた。母親はベッドの上に座らせ、自分は机からイスを引きだして腰かけている。
「どういうこと?」「どういうこと?」
二人の声が重なった。
桐子は目で、ナツのほうに発言を譲る。ナツは一度咳払いをしてから、
「見ず知らずの女の子をあんなに簡単に預かるなんて、どういうことだよ?」
と、たしなめるようにして言った。言いながら、これはセリフが逆なんじゃないだろうか、という気はしている。
「あら、あの子を泊めてほしいって頼んできたのは、ナツのほうでしょ?」
桐子は不思議そうに言った。
「僕は積極的に提言したわけじゃない。預からなくちゃいけなくなった、と言っただけだ」
「同じことでしょ?」
「違う。母さんだったら、警察とか児童相談所とか、そういう機関にだって相談できるだろ」
「児童相談所って、あんたずいぶん難しいこと知ってるのね」
桐子は変なところで感心した。
「――ともかく、子供の僕ならともかく、母さんなら何とかできるはずだろ」
言われて、桐子はしばらく黙っていたが、唐突に話題を変えた。
「昔ね、捨てられた犬を見かけたのよ」
「……うん?」
「こんなちっちゃな小犬でね、ダンボールの中に入れて捨てられてたのよ」
独り言でもつぶやくように、桐子は続けている。
「私はその小犬を見かけて、放っておけなくて家まで持って帰ったのね。でも親にだめだって言われて、仕方なく元の場所に戻したのよ。で、次の日に同じところを通りかかったら、その小犬はもういなくなってたの。ダンボールもなくなっててね。それで私は今でも、あの時の小犬はどうなったんだろうって、時々考えるわけよ」
しばらく、ナツは黙っていた。が、話の続きがはじまるような気配はない。
「……それで?」
と、先をうながす。
「それだけ」
桐子は何事もなかったかのように言った。
「それだけ?」
「――なんだけど、でもね、ナツ」
そう言って、桐子はまっすぐにナツのことを見つめた。電波望遠鏡が星の光を追いかけるような、正確で狂いのない視線だった。
「本当は理由なんていらなかったのよ。誰かを、何かを助けたいと思ったときに、理由なんか。少なくとも今は、そう思うのよね」
ナツは何も言えなかった。何故か、何も言葉が出てこなかった。
夕食時が近づいた頃、父親のほうも帰宅した。
ナツの父親である久良野樹は、言語学者として民間の研究所で働いている。具体的にどんなことをしているのかは、ナツにはよくわかっていない。
樹はどこか茫洋とした、とらえどころのない風貌をしていた。羊に似たくしゃくしゃの頭をしていて、目が糸みたいに細い。印象としては、風まかせにふわふわと宙を漂う、風船みたいなところがあった。誰の手にも無抵抗に収まるが、自由になると自然にどこかへ飛んでいってしまう。
ソラのことを聞かされた樹は、
「へえ、何だか面白そうな話だね」
と言うだけで、まるっきり反対などはしなかった。何が面白いのかは、ナツにはわからない。
いずれにせよ母親が了承した時点でこうなることはわかっていたので、ナツとしては意外でも何でもなかった。樹はめったなことでは、桐子に逆らったりはしない。
そのあと、イスを一つ足して四人で夕食になったが、ソラはずっと前からそうだったかのような自然さで食事をしている。
ナツにはこの少女のことが、一番よくわからなかった。
食卓を囲みながら、樹も桐子もソラのことをひどく気にいっているようだった。どうも、そういう人間的特質がこの少女には備わっているらしい。手足の長さとか、瞳や唇の形といった身体的特徴と同じような具合に。
窓の外には宵闇が音もなく広がりはじめ、一日が終わろうとしていた。すべてが不確実な世界で、それでもそれだけは確かなことだった。
ともあれ――
こうして透村穹は、久良野家でしばらく暮らすことになったのである。
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