冷房の効いた建物の中にいると、つい夏の暑さを忘れてしまうが、もちろん夏のほうではそれを忘れたりはしない。

 二人は高いビルのあいだを、できるだけ日陰にそって歩いていた。見あげると、空が切りとられたように小さく見える。手をのばしたくらいでは、届きそうもない高さだった。

 ナツは乗ってきた自転車を押しながら、ソラはその隣で冷たいアイスを食べながら、歩いている。アイスは抹茶のフレーバー。ソラはプラスチックのスプーンでそれをすくいながら、物珍しそうにあたりの景色を眺めていた。何がそんなに珍しいのか、ナツにはわからない。

(いや――)

 と、ちょっと憮然とした感じでナツは思っている。

(わからないことだらけだ)

 透村穹というこの少女がいったい何者なのか、どうして魔法のことを知っているのか、〈運命遊戯〉という予言のこと、それに第一、何のためにこうしていっしょにいるのか。

 もしかしたら、あの二人組の魔法使いが探していた〝お姫様〟というのは――

「私には、もう親も家族もいない」

 ナツは少女の言葉を思い出していた。あれは、どういう意味だったのだろう。

「――意味なら、ある」

 そんな言葉が引っかかって、ナツは妙な気分を振りきれずにいた。不可解かつ理不尽でしかない状況だというのに、このまま何もかも放りだしてしまう気にもなれないでいる。

(それとも……)

 と、ナツは自転車を押しながら思っていた。

 それともこれも、魔法のせいなんだろうか――?


 ナツの家は、十階建ての分譲マンションの一画にあった。エレベーターで上まで昇って、外廊下を歩いていく。コンクリート製の胸壁の向こうには、空と雲、それに町の景色が広がっていた。マンションは市の中心部にほど近いところに建っている。

 家の前まで来ると、ナツは鍵を使って扉を開けた。両親は二人とも仕事で出かけている。

 玄関に入ると、後ろでドアが音を立てて閉まった。電気はつけていないので、目の粗い布みたいな闇があたりを覆っている。

「……妙な家だな、ここは」

 ソラは何か戸惑ったような口調で言う。

「妙って、何が?」

 ナツにはわからない。特別に変わったような家ではないのだ。

「ここには家がたくさんあるのか?」

 マンションのことを言っているらしい。今までのことから考えても、この少女は相当に浮世離れしたところに住んでいるらしかった。

「……まあ、そういうことだから、気にしなくていい」

「そうか」

 妙な問答をしながら、二人は靴を脱いで廊下にあがった。見ると、ソラは脱いだ靴をきちんと揃え直している。言葉使いのわりに、そういうところは上品な娘だった。

 リビングに着くと、ナツは電気のスイッチをつけた。そこにはソファやテレビが置かれ、こぢんまりとはしているが清潔で居心地の良さそうな空間が広がっている。向こうにはキッチンがあって、壁の時計が澄ました顔で音を立てていた。

 ソラは感心したようにあたりを見まわした。わりと好奇心の旺盛な性格らしい。まるではじめて新大陸に上陸した航海士みたいに、物珍しそうな顔をしていた。

 どうやらこの少女は、何かの都合で時間の停止した田舎みたいな場所の、古い大きな屋敷にでも住んでいたのだろう。良識のほうはともかく、ちょっと常識に欠けるところがあった。そう思うと、挙措動作もどことなく旧時代的な感じがしないでもない。

 ナツはエアコンのスイッチを入れて、ソラを居間のソファに座らせた。テレビをつけて、適当にチャンネルを変えていく。ちょうどアニメをやっていたので、それを映しておいた。

「しばらく、そこでじっとしてろ」

「――うん、わかった」

 ナツの言葉を聞いているのか、いないのか、ソラはじっとテレビ画面を見つめている。もしかしたら、テレビを見たことがないのかもしれない。

 そのあいだに、ナツは同じ居間にある電話機のところに向かった。ソラのいるほうからは、爆発音やらキャラクターのセリフやらが聞こえてくる。夏休みになってからはじまっている、『スターチャイルド』というアニメの再放送だった。

 ナツは受話器を取ると、メモを確認してからボタンを押しはじめた。しばらくコール音が続いて、相手につながる。

〝もしもし、桐子とうこです〟

 そんな声が聞こえた。

「――母さん? 僕、ナツだけど」

 ナツが電話をしたのは、自分の母親だった。名前は久良野桐子という。

〝なに、どうかしたの?〟

 急に子供から電話があって、驚いているのだろう。桐子は不思議そうな声で訊いた。

「どうかしたんだよ、それが。」

 と、ナツはうんざりしたように言って、

「ところで今、大丈夫? ちょっと長い話になりそうなんだけど」

〝私なら大丈夫よ。ちょうど今、休憩中だから〟

 そのことを確認すると、ナツは一度だけ大きく息を吸ってから言った。

「実は女の子を一人、家で預かることになったんだ」

 電話の向こうに、沈黙がおりている。いろいろなものが含まれている種類の沈黙だった。

〝よくわからないわね。友達を家に泊めるってことなの、それは?〟

「いや、違う」

 面倒な嘘をつくとあとあと厄介なことになるので、その点についてはナツは正直に答えた。

〝じゃあ、何なの?〟

 何なんだろう、とナツは自問せざるをえない。

「ここではうまく説明できない」

〝あんたの彼女ってわけじゃないわよね?〟

「それはない」

 むしろ、その想像のほうがよほどおかしかった。

〝別に隠さなくてもいいのよ。これでも思春期の息子を持つ母親なんだから〟

「知らないかもしれないけど、すごくまじめな話をしてるんだよ、今は」

 会話を進めるために、ナツはとりあえずそう言っておく。

〝わかってるわよ、それくらい。で、どんな子なの、その子は?〟

「普通だよ。十歳くらいの、普通の女の子……いや、普通でもないか」

 まさか、予言に導かれてここまでやって来た魔法使い、とは言えない。

〝可愛い子?〟

「さあ、どうかな」

 母親の表情が何となく想像できたので、適当に言葉を濁しておく。

〝どうして家に泊まるって? 何か事情でもあるわけ?〟

「よくわからないけど、今日泊まるところがないんだってさ」

〝……ふうむ〟

 桐子は電話の向こうで、何かを考えているようだった。

〝それで、あんたはその子のことをどう思ってるわけ?〟

「どうって?」

 質問の意図がわからない。

〝信用できるかどうかってこと〟

「たぶん、それは問題ない」

 不本意ながら、ナツはそう言わざるをえなかった。

〝――なら、いいんじゃない?〟

 桐子はわりと、あっさりした口調で言った。

「いい?」

 何となく聞き間違いでもしたような気がして、ナツは問いかえしている。

〝別に構わないんじゃない、それくらい。事情はおいおい聞くとして、そんな小さな子を放っておくわけにもいかないでしょ。季節外れだけど、その辺で売れ残りのマッチに火をつけられても困るしね。それにあんたが信用してるっていうんなら、大丈夫でしょ〟

 信用しているとは言っていない。たぶん問題ない、と言っただけだ。

「本当に構わないわけ?」

〝ええ、私はね、お父さんもそう言うと思うけど。まあ、詳しい話はまたあとで〟

「うん――」

〝じゃ、そろそろ仕事に戻るから、この辺で。続きは帰ってからね〟

 そう言うと、桐子はナツの返事も待たずに電話を切った。

 ナツはしばらくのあいだ、無機質な信号音の響く受話器に耳を当てている。が、やがて諦めたようにそれを元に戻した。ふと気づくと、桐子はソラの名前さえ確認していない。

 ソファのところに戻ると、ソラは行儀よく腰かけたままテレビ画面をじっと見つめていた。アニメはちょうど中間のCMに入ったところである。

「面白いな、これ」

 ソラは真剣に、まるでそれがとても重要なことみたいに言った。

「やれやれ」

 ナツは何だかひどく疲れたように、ため息をついてしまっている。

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