二つめの予言
1
雨賀秀平は貸しビルの一室で窓枠に腰かけ、ぼんやりと外を眺めていた。
開いた窓の外には、雑然とした裏通りの景色が広がっている。壁面にべったりと汚れをつけたビルや、あまり流行っているようには見えない飲食店。まだ昼までには間のある時間だったが、太陽はそんな光景とは裏腹にひどく明るく輝いていた。
火のついていない煙草をくわえたまま、雨賀はそんな景色を見るともなく見つめている。
〝これ以上、悲しみを増やしたら、世界はもう耐えられない――そうは、思いませんか?〟
そう、彼は言った。
ずいぶん昔の話だ。その頃、雨賀はとても大切なものを失って、混乱している最中だった。世界の成りたちみたいなものが理解できず、自分が何をしているのかもよくわからなかった。すべてのことの意味がばらばらに分解し、物事が今でも問題なく継続していることに、戸惑いしか覚えなかった。
〝――完全世界を、取り戻したくはありませんか?〟
彼は、にこやかに言った。
とても自然に、とても簡単に。その言葉が何を意味しているのかを知りながら、そんなことはまるで問題にはならない、とでもいうふうに。
雨賀はいろいろなことに混乱はしていたが、それでもその言葉が何を意味するのか、ということくらいは十分に理解することができた。
それがどれだけ悪魔的なものか、ということくらいは――
童話によくある、一種の取り引きみたいなものだったのかもしれない。願いを何でも叶えてくれる代わりに、死んだあとには魂を持っていかれる。すると人は、天国での救済は得られず、地獄の炎で永遠に焼かれ続けなければならない。
彼の提案は、要するにそういうものだった。
けれど――
雨賀は結局、その取り引きに署名する。おそらくは、魂を代償に捧げて。雨賀は彼によってある男のもとへ連れていかれ、正式に契約を結ばされた。
どうやら雨賀を誘った彼もまた、その男によって契約に隷従する一人だったらしい。ある意味では、その男が悪魔の親玉なのだった。
そうして雨賀は〝
実のところ、その男が何者で何を企んでいるのかは、雨賀にはまるでわかっていない。完全世界を実現しようとしている、ということ以外は。
しかし、それで十分だった。もしも神様がこの世界を救ってくれないのだとしたら、それが悪魔だったとしても、何の問題があるだろう?
(――魔法はそのためにこそある、か)
雨賀はぼんやりとしたまま、最初に自分を〝結社〟へと誘いこんだ彼の言葉を思い出していた。
その時、不意に扉の開く音がしている。
雨賀が視線を動かすと、そこには烏堂の姿があった。相変わらずしゃれた格好をしていて、雨賀とは対照的だった。
入口のところできょろきょろと室内の様子をうかがっていた烏堂は、
「エアコンくらい、つけたらどうなんです?」
と、呆れるように言った。
「ああ、そうだな。暑いな」
雨賀はけれど、ひどく気のない返事をしている。そんなことはどうでもいい、という感じだった。
貸しビルの一室であるその部屋には、ほとんど何も置かれてはいない。本来なら事務所としてでも使えるのだろうが、今はただ表情を欠いた空間が茫漠と広がるばかりだった。寝具代わりらしいソファが取り残されたように一つあるほかは、パソコン一台、植物一鉢、置かれてはいない。倉庫として使える部屋が隣に付属していたが、そこも似たようなものだった。
「よくこんなところで暮らしてますね」
烏堂は感心しているのか、馬鹿にしているのか、よくわからない口調で言う。
「寝る場所があれば、あとはどうとでもなるんだよ」
窓枠に腰かけたまま、雨賀はそっけなく反論した。
「しかし、人間には健康で文化的な最低限度の生活を営む権利ってのがあるはずですよね?」
「それがこれだ」
雨賀は無慈悲に断じた。
「どうせ余った物件をただで借りているだけだからな、これ以上どうこうするつもりはない……それより、無駄口はもういいだろう。そろそろ出かけるぞ、車の用意はできてるんだろうな?」
そう言って、雨賀はくわえていた煙草を窓から放り投げた。火はついていないので、危険というほどのことはない。
「下にありますよ」
烏堂はどこか諦めたような口調で言う。
二人はエレベーターを使ってビルの一階まで降りると、玄関から外に出た。車は路上に停められている。雨賀が運転席に座ると、烏堂もドアを開けて助手席に乗りこんだ。
雨賀がキーを差してエンジンをかけようとしていると、
「――僕としては、雨賀さんのやろうとしていることは大体理解しているつもりです」
と烏堂はぽつりと、つぶやくように言った。
「……?」
雨賀はいったん、キーをまわすのをやめる。車内はひどく暑かった。
「でも正直なところ、今一つぴんとこないんですよ。完全世界を実現するといったって、具体的にはどうするんですか? それに、それが実現したからといって本当に何もかもうまくいくんですか?」
雨賀は少しして、再び車のエンジンをかけながら、
「……お前にはたぶん、わからんだろうな」
と、まるでそれが絶対的な事実であるかのように言った。
「まだそれを失ったことのないお前には、わからんだろう。それを失ったとき、世界がどうなるのか」
何度かキーを回したとき、ようやくエンジンはかかっている。
「俺たちは完全世界を欲しているんじゃない。ただ、そうせざるをえないから、そうしているだけだ。俺たちにはただ、諦めるだけの理由が欠けているんだよ」
雨賀はシフトバーを操作し、サイドブレーキを外して車を発進させた。暑熱にも不平を言わず、車は普段と同じように走りだす。
しばらくのあいだ黙っていたが、
「……今日も、昨日と同じですか?」
と、烏堂は訊いた。
「ああ、そうだ」
雨賀は雑然とした街並みを通り抜けながら言う。
「魔法の揺らぎのあるところを探す。足どりが推測できん以上、今のところほかに有効な手段はない」
「また、この前みたいなことにならなけりゃいいんですけどね」
烏堂はつい先日に公園で会った、奇妙な少年のことを思い出していた。おそらくあの少年によってポケットに滑りこまされたのであろう、コインのことも。
(何だったんだろうな、あれは)
窓を開けて外の風を入れながら、烏堂はふとそんなことを考えていた。
――もちろん二人とも、自分たちがあの少年とこれから何度も関わりあいになるのだとは思っていない。
それは予言者でもない二人には、わかりようのないことだった。
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