数日が経過すると、ソラは久良野家での生活にすっかり慣れはじめていた。

 この少女は基本的な適応能力が高いうえに、いろいろなことを自分一人でこなす習慣を持っていた。過度の世話を人に要求することもないし、細々した家事の手伝いをてきぱきとこなすこともできる。

 それはこの少女の生い立ちに、関係があることのようだった。

 ナツは結局、詳しくは聞いていなかったが、ソラの今まで過ごしてきた生活というのは、主にそういうものだったらしい。両親も家族もいない、というのは決して誇張ではないようだった。

 そのわりには、この少女には日常生活の点ではどこにもおかしなところはなかった。むしろ好奇心が旺盛で、健康そうなやる気にあふれている。いつも目の奥を輝かせて、世界を不思議そうに眺めていた。

 まるで――

 この世界に、それだけの価値があるみたいに。

 ソラはそんなふうに、生まれたての小犬みたいな瞳で世界を眺めていたが、かといって何でもかんでも節操なく、というふうではなかった。どこかにきちんとした線引きのようなものがあって、その向こう側に行くことはない。

 それは好奇心の使いかたをよく知っている、という感じだった。

 どんなものにしろ、それはソラにとって世界の一部でしかない。だからソラという少女はその一部がどんなに面白くても、つまらなくても、できるだけ多くのものを見ようとしている。

 つまりそれは――

 世界のすべてをきちんと受けいれようとしている、ということだった。

 だからソラは、よく見て、よく聞いて、よく遊んで、よく考えて、よく眠って、よく目覚めて――日々を、よく生きようとしていた。まるで世界の手触りを、確かめるみたいに。

 例えそれが、どんな場所だったとしても――

 おそらくこの少女にとって、それはかけがえのないものだったのである。


「かつて、世界は完全だったんだ」

 と、ソラは見えない何かに囁くようにして言った。

「完全?」

 ナツはちょっとうさんくさげな顔で、ソラのことを見ている。

 二人がいるのは、マンションの屋上だった。そこには屋根のついた休憩スペースのようなものがあって、ベンチがいくつか置かれていた。川向こうで行われる花火大会なんかを、そこから見物することもできる。

 ナツとソラは何かの傷跡みたいに影のできたその屋根の下にいて、遠くの空や街並みを眺めていた。市街地のほうからは、車の音やかすかな喧騒の気配のようなものが伝わっている。

 空には白い入道雲が広がって、空気が粉々に砕け散るようなジェット機の音が聞こえていた。青空はあくまで晴れわたって、濃く青く、世界の上に浮かんでいた。

「完全てのは、どういうことなんだ?」

 ナツはベンチに座って、シャツの襟をぱたぱたやりながら訊いた。

「言葉通りだ」

 と、ソラは日陰の端に立って、遠くを見たまま答えた。この少女は、何故かあまり暑そうにしている様子はない。何か、こつのようなものがあるのだろうか。

「わからん」

 ナツは理解を放棄したような、投げやりな口調で言った。

「言葉通りの、完全な世界だ」

 ソラはようやく振り返って、もう一度言った。

「そこではすべてのものが完全だった。喜びも、悲しみも。そこでは何の間違いもなく、何の争いもなく、何一つ欠けたものはない――それが、完全世界だ」

「そんな世界、想像できない。想像できない世界なんてのは、ないのと同じだ」

「ナツは魔法が使えるんだろう?」

 と、ソラはまっすぐにナツのことを見ながら言った。

「だったら、わかるはずだ。それが完全世界にあった力なんだと。そしてそれを、お前も求めたことがあるはずだ」

 まるで鏡の中の自分を見るように深く、ソラはナツの瞳をのぞきこんだ。

 ナツは一瞬その目を見て、けれどどうしてだか目をあわせていられなくなる。真実の鏡をのぞきこんだ、醜い女王のように。

 完全世界について最初に質問したのは、ナツのほうだった。魔法使いとはいえ魔法には詳しくないナツは、そのことをソラに訊いてみたのである。

「――そういう魔法に関することは、誰に教わったんだ?」

 ナツは苦しまぎれのように、話題を変えた。

「祖父だ」

「いくつか聞いてもいいか?」

 とナツはちょっと難しそうな顔をして訊いた。

「何だ?」

「お前の両親のこと」

「……父親と母親は、まだ私が小さかった頃に亡くなった」

 ソラはそれが、何でもないことのように言った。

 いや――

 そんなふうに言ってしまうことができなければ、たぶん耐えられなかったのだろう。

「それからは、祖父といっしょに暮らしている。祖父は魔法使いだったんだ。ただ、両親はそうじゃなかったらしい」

「ふむ」

 ナツは曖昧にうなずいている。その祖父も、今はもういないというわけだった。この少女にはいったい、世界がどんなふうに見えているのだろう。

 そのままナツが何となく黙っていると、

「――お前の両親は、いい人だな」

 と、不意にソラはそんなことを言った。

 ナツはその言葉を聞いて、顔をしかめるような、戸惑うよな、呆れるような、それでいてそのどれでもないような表情を浮かべる。自分の身内を真顔で誉められるというのは、どうにも対処に困ることだった。

「どうかな」

 とナツは肩をすくめるように言う。

「――いい人だよ」

 ソラは夜が明けたばかりの窓に射す最初の光みたいな、そんな笑顔を浮かべている。そんなふうにしてこの少女に言われると、それが神様にでも保証された事実のように思えてくるから不思議だった。

 ちょっと黙ってからナツは、けれどやはり訊いてみた。

「もしも……」

 と、ナツはめったにないひどく真剣な表情をしている。

「もしも家族を、完全世界を取り戻せるとしたら――ソラはそれを、望むのか?」

 影の中で、ソラは黙っていた。

 そこにあるのは真昼の、ごく薄いヴェールのような日陰にすぎなかった。それなのに、ソラの表情は何故だかよくわからないでいる。

 世界がそっと、静まりかえったようだった。

 やがて、ソラは言った。

「私は愛されていたんだ」

「…………」

「それだけで、十分なくらい」

 ソラは透明に、その底にある感情が透けて見えるほど透明に、笑ってみせた。

 それは、とてもとても強く――

 とてもとても悲しく――

 まるで手の届かない青空を見あげるような、そんな笑顔だった。

 この少女はどうしようもなく、そんな笑顔を浮かべている。

「――どうして自分だけが残されてしまったんだろう、ってお前は思わないのか?」

 しばらくして、ナツは訊いていた。

 ソラは目をつむって、迷うことなく答えている。自分の胸の中にある、大切なものを見つめるみたいに――

「みんなが望んだから、私は生かされている。私が生きていれば、みんなの望みを叶えることができる。だから、大丈夫だ。私は一人で生きているわけじゃない」

「…………」

 ナツは黙ったまま、首を曲げて空を見あげた。

 そうしてちょっと背をのばすふりをして、空に向かって手をのばしてみる。

 けれど――

 やはりそこは空っぽなだけで、のばした手が何かに触れるようなことはなかった。

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