3
(ん……?)
駅のホームに向かいながら、
そこには子供が二人、コインロッカーの前で何かをしている。別に、どこがおかしいというわけではない。兄妹という感じでもないが、何となく仲が良さそうで、見ていると微笑ましいところがあった。
けれど朝美が気になったのは、そんなことではない。かすかな違和感――それは決して言葉にはならない、世界の揺らぎに対するかすかな違和感だった。
朝美は歩き続けながら、二人の子供をじっと見つめる。特に、そのうちの一方のほうを。
(あの子……)
かすかな揺らぎを、そこからは感じることができた。蝶が羽ばたいたあとのような、ほんの微細なものではあったけれど。
(魔法――いや、違う)
歩きながら、朝美は考えている。
魔法だとしても、それはあの子が現に使用しているものではない。どちらかといえばそれは、魔法にかけられている、という感じだった。あの子を基点にした、何らかの魔法の――
その時、子供のうちの一人、少年のほうがこちらを向いた。あまり長く見すぎたせいで、視線に気づいたのだろう。
朝美は怪しくならないよう、急に視線を逸らしたりはせず、そのまま駅のホームへと歩いていった。少年はそのあいだ、歳のわりには油断のならない目つきでこちらの様子をうかがっている。
二人から完全に見えなくなったあたりで、朝美は後ろを振り返ってみた。
用事が終わったのか、子供たちはロッカーの前から離れていった。この距離では、さっき感じたような魔法の揺らぎを感知することはできない。それがどんな魔法なのかは、彼女には見当もつかなかった。
気にはなったが、今のところはどうすることもできない。それに彼女には、ほかにやるべきことがあった。
そう――
結局のところ、それは彼女には関係のないことだった。何か問題があるならともかく、今のところは。
少なくとも千ヶ崎朝美は、そう思っていた。そう思わない理由など、どこにもないはずだった。
天橋市から東西にのびる七葉線、その東に向かった四つめの駅に夕凪町は位置していた。緑の山や田園風景の広がる、長閑な田舎町である。
朝美はその駅で降りると、小さなロータリーでバスが来るのを待った。事前に調べるということをしていなかったので、本数の少ないそのバスに乗るには、あと一時間近く待たねばならない。
彼女は薄く茶色に染めた髪をボブカットにした、理知的な感じの女性だった。ストライプの入ったスーツ姿という格好で、いかにも仕事ができそうな雰囲気がある。同時に、精度の高い部品で作られたクールな機械めいたところも。
ほとんど人もいない寂れたその駅では、ぱりっとした身ごなしの朝美はひどく場違いな感じがした。けれど朝美自身は、そんなことは気にしていない。彼女の仕事では、訪れる場所は特に決まっていないのだ。
小さな駅舎の中で、朝美は念のために持ってきた文庫本を開いた。ひどく暑かったが、彼女はそれをいちいち顔に出したりするような人間ではない。
時計の針が一回り近くまわって、ようやくバスがやって来た。朝美はうんざりした様子も見せずに、そのバスに乗る。バスのほうは彼女よりずっとくたびれた感じで、苦労しながら走りはじめた。
車内にはつまみが壊れたみたいに冷房が強くかかり、シートはスプリングの形がわかるくらいに古びていた。窓の外には密度の高そうな陽射しと、その下で光を反射する水田が広がっていた。蝉の声が、驚くほど近くから聞こえる。
いくつか停留所を過ぎたところで、朝美はブザーを押した。バスを降りたのは彼女のほかに一人だけで、あとはもう誰も乗っていない。まるで世界の果てにでも向かうみたいに、そのバスは走り去っていった。
歩きだして、やがて朝美は一軒の家の前に着いている。表札を確認すると、間違いないようだった。そこには「佐乃世」と、黒い墨で書かれている。
すでに来るのを待っていたのだろう。朝美が声をかけると、家の主人は慌てた様子もなく、玄関先まで姿を見せていた。
佐乃世来理――
六十を少し越えた程度の、初老の女性である。顔にはそういう年齢の人だけができる、上品な笑みを浮かべていた。自然な色あいをした灰色の髪は、年月を経過した鉱物を思わせるような複雑な色あいをしている。夫にはすでに先立たれ、彼女はこの広い家に一人で暮らしていた。
「ようこそいらっしゃい。千ヶ崎朝美さん……よね?」
と、来理は落ちついた声で言った。
「はい」
そう言って、朝美は丁寧に頭を下げる。きちんと訓練された種類のお辞儀だった。
「本日は急にお伺いして申し訳ありませんでした、佐乃世さん」
「あら、そんなに堅苦しくなることはないのよ」
と来理は心底歓迎するような口調で言う。
「どうせしがないおばあさんが一人でいるだけなのだから。それより、今日は遠いところをわざわざご苦労でしたね」
「いえ……」
言いながら、朝美はさすがにあのバスの待ち時間を思って、それ以上うまく言葉を続けられなかった。
来理はそんな朝美の様子をおかしそうに眺めていたが、
「――どうかしら朝美さん」
と、急に話題を変えて言った。
「ちょっと、お茶でもいっしょにいかが?」
「いえ私は仕事でここまで来ましたから、どうかお構いなく」
朝美は当然辞退したが、来理は笑顔を浮かべてやんわりとそれを無視している。
「こんなところにいると、遠くからお客さんが来てくれるのは嬉しいものよ。少しくらいおもてなしをさせてくれたって、罰は当たらないでしょう?」
「ですが――」
朝美はそれでも断ろうとしたが、目の前の老女は百年もこの時を待っていたかのような笑顔を浮かべている。それを見ると、彼女はつい何も言えなくなってしまっていた。
「――はい、いただきます」
結局、何だかよくわからないうちに朝美はうなずいてしまっている。
「それはよかったわ」
来理はそれを聞くと、歳長けた魔女みたいに笑ってみせた。
居間のガラス戸からは、家庭菜園風の小さな庭をのぞむことができた。今はその扉は開けられていて、気持ちのよい風が吹きこんでいる。部屋の空気は涼しくて、エアコンや扇風機をつける必要さえなかった。
「――どう、お口にはあうかしら?」
お茶とお菓子を用意したテーブルを前に、来理は訊いた。
朝美は口をつけていたカップを離し、ソーサーに置いた。鈴の鳴るような、澄んだ音が響く。そのせいでもないだろうが、お茶はひどく上品な味がした。
「ええ、美味しいです」
本心から、朝美はそう言った。彼女には珍しく、口元に柔らかな表情を浮かべている。
「お菓子も召しあがって。どれも手製の拙いものだけど」
「いただきます」
朝美は言って、クッキーに手をのばした。ちょっと不思議な味のするものだったが、おいしいことには変わりない。
その様子を、来理はにっこりと微笑んで見つめていた。この人なら、こんなふうにおいしいものを作れても不思議ではない、という笑顔だった。
「何だか、魔法みたいですね」
と、朝美はつい口がすべってしまったみたいに感想をもらした。
「ある意味では、そうかもしれないわね」
来理はカップを両手で持って、つぶやくように言う。
「魔法とよく似た、人の〝知恵〟とでも言えばいいのかしら。言葉を使わないという意味では、それだって魔法のようなものなのだから」
「そうかもしれませんね」
と朝美はうなずく。
「私には小学生の孫がいるのだけど、この子もなかなか知恵のある、頭のよい子なのよ」
来理はにこにことしたまま、少し自慢するように言った。
「……そのお孫さんも、確か魔法使いだそうですね」
朝美はちょっと間を置いてから訊いた。
「ええ――」
来理は心持ち慎重にうなずく。それを見ながら、朝美は言った。
「例の噂については知っています。彼に禁忌の魔法が使われたということは。ですが、今回佐乃世さんをお訪ねしたのは、そのことに関してではありません」
「だとしたら」
と、来理は少しとぼけるようにして言った。
「委員会の〝
魔法委員会と執行者――
かつての完全世界が失われ、魔法がその力のほとんどを失くしたとしても、それが世界の存在そのものを作り変えてしまう危険な力であることに変わりはなかった。魔法が作る揺らぎというのは、結局はそういうものなのである。蝶がその羽で起こす、かすかな風の揺らぎと同じで――
だからそうした力を統御するために、何らかの組織が必要とされるのは当然なことだった。この世界を不完全ではあるにせよ、安定させておくためには。
そうして作られたのが、〝魔法委員会〟だった。
委員会の役割は、魔法使いの統制、魔法についての研究、魔術具の管理などである。歴とした国家組織だったが、もちろん一般にはその存在は知られていない。普通の人間には、魔法そのものを認識することができないからだ。
そして〝魔法執行者〟とは、その委員会の手足となって働く人間たちのことだった。彼らは委員会の指示に従って、魔法に関する調査を行ったり、監視業務にあたったりすることになる。あるいは、何らかの事件や事故に対して処理を実行することも――
「私が今日ここに来たのは、〝
朝美は淡々とした口調で言った。
「それに、魔術具をいくつかお借りしたいとも思っています。おわかりただけるとは思いますが、これは委員会からの協力要請です」
「もう少しおしゃべりをしたいところだけど、そんなわけにもいかないでしょうね。委員会からのお達しとなると……」
事務的な朝美の言葉に、来理は諦めたように首を振った。
〝魔法管理者〟とは、委員会から魔術具の管理を委託された、第三者的な立場にある協力者のことだった。地域ごとに魔法使いの中から適当なものが選ばれ、その任務に就くことになる。彼らは執行者とは違って、委員会の直接傘下にあるわけではない。
それから、少し時間が流れている。何かの準備が整うのを待つような、そんな時間だった。
「――委員会の存在は万能というわけではありません」
少し間をとってから、朝美はひどくあらたまった調子で言った。
「人員的にも、資金的にも、潤沢なものとはいえません。正直に言えば、すべての魔法に関する事例に委員会が関与できるわけではありません。事件にならないものや、そうだとは認知されないものもあります。何しろそれは、魔法に関することですから」
「ええ……」
来理は軽くうなずいた。その辺のことは、彼女もよく知っている。
「ですが、委員会ではこの地域で起こったことについて調査することにしました。今年の春先までに、天橋市で起こったいくつかの不審な動きについてです。私が命じられたのは、そのことに関する予備調査でした」
朝美はそこで、少し言葉を切った。カードゲームで、札が配られるのを待つみたいに。
「ここで何が起こったのかは、私にもまだよくわかっていません。それはもう、終わってしまったことのようにも思えます。ですが私には、ここで起きたことは委員会として看過できることではないような気がしているのです」
彼女はそう言うと、じっとうかがうように来理のことを見つめた。カードの裏に書かれた数字を読みとろうとするような、そんな視線だった。
「――怖いわね」
と、来理はちょっと笑うようにしてその視線をいなした。
「何だか、心を見透かされる魔法でも使われているみたいで」
「魔法の使用はしていません。魔法使い同士では、それはあまり意味のあることではありませんから」
朝美はにこりともしないまま、面白くもなさそうに言った。
もちろん来理にも、それはわかっていた。魔法の揺らぎを感じれば、それに対処することは難しくない。だが執行者とは、魔法に関する訓練を受けたエキスパートでもあった。もしもそうした分野に関する勝負を挑まれれば、どうなるかはわかったものではない。
そして執行者とは、それが許された存在でもあった。
「――残念だけど」
来理は緊張を解くように、ちょっと首を振りながら言った。
「私は何も知らないわね。この場所を離れることはあまりないし、そうした動きについては特に何も感じていないわ」
そんな来理に対して、
〝――佐乃世さんのお孫さんはどうですか?〟
と、朝美はそんなことを訊こうとして、けれど何故だか口を噤んでしまっていた。
それを目の前の老婦人に訊ねるのは、ひどく酷なことのような気がした。そこで何が行われ、何が失われたのかを考えれば。あるいはさっき口にしたお茶やお菓子、その笑顔のことを思い出してしまったせいかもしれない。
「……そうですか」
朝美は内心のことはどうあれ、外面的には事務的な態度のままうなずいてみせた。心の片隅では、これは執行者失格かもしれない、と思いながら。
「ごめんなさいね、力になれなくて」
と来理はあくまで穏やかに、そう言った。
「いえ、仕方ありません。そう簡単に手がかりが見つかるとは、私も思ってはいませんから」
「…………」
その言葉に、来理は曖昧な笑顔を浮かべている。
――もちろん来理は、朝美の言う「いくつかの不審な動き」について知っていた。ある人物を中心に起こった出来事だということを。
彼は完全世界を取り戻すために魔法を利用し、彼女の孫である少年と対決さえしていた。少年の、その魂を狙って。
けれど来理にはどうしても、その彼を憎むことはできなかった。彼を非難し、糾弾するような真似をする気には。
何故ならかつて彼女もまた、同じことを願ったのだから。
彼女の娘、宮藤未名が死んだとき……正確には、彼女が自分の命を犠牲にすることを決めたとき。
この不完全世界を呪い――
完全世界を求めたことが――
だから来理には、この場で彼のことを話すことはできなかった。例えそれが、この世界に対する重大な背信行為に当たるとしても。
二人はしばらくのあいだ、ただ黙っていた。時計の針が、無関心そうにかすかな音を立てている。
「――実のところ、今回のような件は天橋市だけで起こっているわけではありません」
と、朝美は不意に言った。
「いくつかの地域で、同じような事例が報告されています。魔術具のやりとりや、組織的な背景を感じさせる魔法の使用についてです。それに従って、執行者も各地に派遣されています。これらのことは、私には同じ根を持ったことのように思えます。同一の集団による、共通の目的を持った一連の行為です。それがいつ頃から行われているのかはわかりません。かなり、古くからのことなのかも。ですが問題は、彼らが何を目指しているか、です」
朝美はそこで、言葉を切った。雲で太陽が隠れたのか、さっと切り裂くように部屋の暗闇が濃くなっている。
「〝完全な魔法〟――」
ぽつりと、つぶやくように朝美は言った。
「……え?」
来理は一瞬、怪訝な顔をしている。
「特殊型の魔法は、ある時期を境に〝不完全な魔法〟へと変化します。かつて世界を変えるだけの可能性を持っていたものが、その可能性を失ってしまう」
「…………」
「完全な魔法が使えるのは、子供たちだけです。十五歳を境界とした、子供たちだけ。その時期を過ぎれば、魔法はもう不完全なものでしかなくなってしまいます。どんな魔法使いにも、その例外はありません」
朝美はそこで、いったん口を閉ざした。太陽が現れたのか、またさっと光が入れかわっている。
「完全な魔法を失ったからといって、どうなるというわけではありません。この世界の不完全さを考えてみれば、どうとういうことは。それは悲しむことでも、嘆くようなことでもない」
ただ、と朝美は言った。
「ただ人は、そうなってさえ完全世界を求めずにはいられません。それが魔法使いであるなら、なおのこと。かつての完全世界を知り、そこにあった力を今でも持つ人たちなら……私には最近、そのことが気になってしかたがないんです」
千ヶ崎朝美はやや深刻な口調で、そう言った。
まるでそれが、不吉な予言か何かであるかのように。
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