5
久良野桐子がナツに向かって、
「あんたたち、どこか遊びに行ってきたら?」
と言ったのは、ある朝のことだった。
ナツはエアコンの効いたリビングで、ソラといっしょに夏休みの宿題を片づけていた。現状を考慮するとそれどころではない気もするのだが、その理由を担任に説明するよりは、大人しく宿題をすませてしまったほうが簡単には違いない。
「どこか?」
ナツが面倒そうに訊きかえすと、
「これ、あげるから」
と言って、桐子は五千円を提示した。小学生には、かなりの大金に違いない。
「お父さんが昨日、あんたたちにって」
ナツの父親の久良野樹は、前日の夜に家を出ていた。学会だか研究発表だかで、用事があったからである。二日もすればまた帰ってくるが、樹にすれば家族サービスみたいなつもりだったのかもしれない。
「ふうん」
と、ナツは少し考えていたが、
「じゃあ、あそこは。あの遊園地……確か、前に一度行ったことがあった」
「うん、まあいいんじゃない、あそこで。行きかたとかは、大丈夫よね?」
「たぶんわかるんじゃないかな。駅でバスを乗り換えるだけだし」
二人の横で、ソラは今のやりとりを興味深そうに見守っていたが、
「――遊園地に行くのか?」
と、露骨に興奮してみせた。
「ええ、そうよ」
桐子が言うと、ソラは今時の子供にしては無邪気すぎるくらいの様子で目を輝かせている。
「よし今すぐ行くぞ、ナツ」
「その前にちょっと準備しないとね――」
はしゃぐソラを抑えて、桐子は穏やかに指図した。
「服も着替えなくちゃならないし、ほかにも用意しなくちゃ。ナツは勝手にお願い。ソラちゃんは、私とこっちに来てね」
二人が別の部屋に行ってしまうと、ナツのほうは自分の部屋に向かった。
服を着替えて、少し考えてからいつものようにウエストバッグを着ける。念のために中身を確認し、いくつかの物を足した。
(まさかとは思うけどな……)
と、ナツはあくまで用心のつもりでいる。
それからリビングに戻ってしばらくすると、桐子に連れられたソラが姿を見せた。
「じゃーん」
と、桐子はそんな効果音をつけている。ひどく嬉しそうだった。
その横で、ソラはちょっと戸惑うような、困ったような表情をしている。体に大量の風船でもくっつけられたみたいに、落ちつかない様子だった。
おそらくは桐子のコーディネートなのだろう。ソラはいつもより幾分、上等そうな格好をしていた。髪も、数日前に桐子に切られていて、全体に軽くまとまってすっきりしている。
そのままの格好で世間に出しても、それなりに評価されそうではあった。
「――どう、可愛いでしょ?」
と、桐子は息子にそっと耳打ちして意見を求めた。
「知らないよ、僕は」
ナツはちょっと迷惑そうに、コメントを控えている。
「どうかしたのか?」
そんな二人の様子を見て、ソラはかすかに首を傾げている。その姿は、何故かいつもより上品な感じがした。
「……何でもないよ」
ナツはため息をつきながら、明言を避けた。それがどういう種類のため息なのか、自分でもわからないまま。
※
その家は、ごく普通の住宅地の一画にあった。雨賀秀平はその前に車を停めると、烏堂を残して自分は外に降りている。時刻はまだ、蝉が本格的に鳴きはじめる前というところ。
チャイムを鳴らすが、反応はない。雨賀はしばらく様子をうかがっていたが、玄関の横にまわって奥へと入っていった。不法侵入だが、家主とは知りあいだから見つかっても言い訳はできるだろう。
塀と家のあいだの比較的広い道を通っていくと、敷地の裏手に出た。
そこには、離れみたいな格好で独立した建物があった。ただその建物は、明らかに異質だった。何かの間違いみたいに、装飾性など一切無視して白い直方体の塊が配置されている。鉄と木材を無理やり熔かしあわせたような感じだった。
雨賀はその建物に近づくと、正面にあったガラス戸から中をのぞきこんだ。予想したとおり、そこには家の主人がいて、何かの作業に没頭している。
できるだけ邪魔にならないように、雨賀はガラス戸を叩いた。が、相手に気づく気配はない。しかたなく、やや強めにもう一度叩いた。
今度は、中で気づいている。相手は手をとめて、ガラス戸の向こうをうかがった。いきなり訪問者がそこにいた、というわりには、まるで驚きも怯えもしていない。人間性に欠けた無反応さだった。
「――失礼するよ」
雨賀は断ってから、ガラス戸を開けた。空調がかけられているわりに、中には不自然な熱気があった。おそらく、バーナーから噴きでる炎のせいだろう。コンクリートが露出しただけの室内は、外観と同じく装飾性というものに欠けていた。
「邪魔したか?」
と雨賀が訊くと、その女性はサングラスを取って首を振った。バーナーの根元にあったバルブを操作すると、限定的な轟音を立てていた炎が消える。
彼女の名前は、志条夕葵といった。
三十代前半といったところの、ちょっと線の細い女性だった。整った顔立ちのわりには、無造作に切られた髪を含めて、どこか表情に乏しい感じがしている。全体に冷たい印象があったが、それは乾いた雪のように手からさらさらと滑り落ちてしまう種類の冷たさだった。そんな印象でさえ、持たれることを拒否しているかのように。
室内には、何に使うのかよくわからない機械や工具類が置かれていた。作りかけのものらしい、妙な形の輪に似た物体も。部屋の隅には二本のボンベがあって、彼女の手元にあるバーナーと接続されている。理科の実験などで使うちゃちなものとは違って、いかにも強力で頑丈そうな代物だった。いわゆる、酸素バーナーというやつである。
彼女がサングラスをしていたのは、炎の中で融けるガラスの容態を見極めるためだった。ガラスの造成方法のうち、バーナーワークと呼ばれるものである。彼女は、ガラス工芸作家だった。この建物は、彼女の工房なのである。
「仕事中だったのか。だとしたら、悪かったな」
と、気を使う雨賀に対して、夕葵は首を振った。
「これは仕事というほどのものじゃないわね。あたしはキルン(電気炉)ワークが中心だから、一種の余暇のようなものよ」
そう言う彼女の手元には、ガラスの花らしきものが一輪置かれていた。まだ未完成のようだが、余暇で作るというにはいささか精巧すぎる感じでもある。
「確か、展覧会をやってるんだったな」
それを見ながら、世間話のような調子で雨賀は訊いた。
「ええ――」
「順調なのか?」
「興行者によれば、そうらしいわね」
「ずいぶん余裕なんだな」
「――あたしは物を作るだけよ。それがどう評価されようと、どんな値段をつけられようと、あたしの本質とは関係がない」
夕葵はまるで表情も変えずに言った。
「クールにしてドライだな」
と、誉めているのか茶化しているのか、雨賀は笑って言った。
それからふと思い出したようにして、
「そういえば、あんたの娘はどこにいるんだ? フユとかいう。呼び鈴には答えなかったみたいだが」
と雨賀は訊いた。
「夏休みの宿題とかで出かけてるわ」
「なるほどね」
子供は子供で、大変なようだった。
「――それより、何の用なのかしら?」
と夕葵は無表情に訊いた。
「実は、借りたいものがあってな」
「……例の魔術具とかいうやつのこと?」
「ああ、このままじゃにっちもさっちもいかなくてな」
――魔術具。
それはもちろん、委員会の認めた〝魔法管理者〟にしか保管を許されないものだった。しかし、志条夕葵自身は魔法使いでもなければ、もちろん管理者でもない。
彼女が魔術具の保管をしているのは、〝結社〟からの依頼によるものだった。そうした秘密の隠し場所を、彼らは組織していた。委員会に知られれば、もちろんただではすまないだろう。
夕葵は立ちあがって、魔術具のある場所に雨賀を案内しようとした。が、
「……あなたたち、あの子のことは使わないのかしら。あの子の魔法は、今回のことには役立ちそうだけど?」
ふと思いついた、という感じで夕葵は言った。
雨賀はちょっと黙っていたが、
「子供を使うのは主義に反するんでな」
と苦笑するように答えている。
「それに、俺みたいなむさ苦しいのにつきあわせるのも酷ってものだろう。俺には烏堂のやつで十分だよ。あいつの魔法もなかなか役に立つからな」
「――そう」
会話は、そこで終わった。元々、二人は同じ〝結社〟の一員であるということ以外に、共通点は持っていない。
そうして目的の魔術具を借りだすと、雨賀は彼女の家をあとにした。最後に見たガラス戸の向こうでは、夕葵は何事もなかったように作業を続けている。
実のところ雨賀は、志条夕葵が何故〝結社〟に協力するのかは知らない。
ただ――
それはまた、彼女も完全世界を求めたということでもあった。
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