8
名前も知らない駅のベンチに、二人は座っていた。
終電もなくなった駅の構内はすっかり眠りについていて、改札も受付け窓口も閉められている。ホームや駅舎の白い蛍光灯だけが、海底でも照らすようにして今も変わらずに点灯されていた。駅のまわりに広がる暗闇には、街灯や人家の明かりが所々に光っている。夜空に輝く星々のように、その光は何かを伝えようとしているようにも見えた。
時々、風が吹いてきて、どこかへ通りすぎていった。夏はすっかり、昼の暑さを忘れてしまったようでもある。
夜明けまでは、まだだいぶ時間があった。
「…………」
ナツとソラは、駅前のベンチに並んで座っていた。切符の代金は、遊園地代の残りを使って払っている。駅員はさすがに不審そうな顔をしたが、とりあえずは咎められるようなこともなく改札は抜けていた。
それから駅の公衆電話を使って、ナツは家に連絡をとった。今頃は桐子と、帰ってきたばかりの樹が、車でこちらに向かっているはずだった。
二人は世界から忘れられたようなその場所で、それを待っている。
「……いくつか、言っておかなくてはならないことがあるんだ」
ソラは不意に、夜の星がつぶやきでもするように言った。
「ああ――」
「まず、私は魔法使いじゃない」
ちょっと黙ってから、ナツは言った。
「……何となく、それはわかってた」
「わかってた?」
「それがわかることはいくつかあるんだが、まずはじめにコンパスのことがある」
「コンパスって、これのことか?」
そう言いながら、ソラはポケットから例の〝天使〟の絵が描かれたコンパスを取りだした。
「持ってたのか」
それを見て、ナツは〝観測魔法〟でソラの存在に気づいたことに納得した。要するにそれは、自分の魔法による影響だったのである。自分でつけた目印を探すようなものなのだから、無意識に見つけだせたのだろう。
「――私がもらったものを、私が持っていて悪いことがあるのか?」
ソラはちょっと不服そうに言い返している。
「それはまあ、いい。とにかく、その絵のことだ」
ナツはとりあえず、話を元に戻した。
「絵がどうかしたのか?」
「あの時、お前がどうしたか覚えてるか?」
「うむ?」
ソラが首を傾げると、ナツは言った。
「お前はあの時、何も気づかなかったんだ。これがすぐに魔法のかかったものだと気づいてもよかったのに、お前はまるでそのことに気づいてなかった」
「あれは、それどころじゃなくて……」
ソラは何故か、しどろもどろになった。
「――まあ、そうかもしれない。だが、疑いを抱くには十分だった。それにおかしなことは、ほかにもいくつかあった」
ナツはイスにもたれながら、少し疲れた様子で言う。何しろ〝魂〟を現実化したのだから、相当なものといってよかった。
「遊園地、あの時だってそうだ。お前なら〝潜行魔法〟に気づいてもよさそうなものだったのに、まったくそんな様子はなかった。あいつらの言うとおり、訓練された魔法使い同士ならほとんど意味がないはずなのに」
「…………」
「それから、あのループ空間に閉じこめられたときもそうだ。あの時だって、お前がそれに気づいた様子はなかった。あれだけの魔法だったっていうのに――ほかにも細々したことはあるんだが、まあそれはいい。問題はそんなことじゃなくて」
ナツはそこでちょっと、うかがうようにソラのほうを見た。
「――どうして、そんな嘘をついたのか、ということだな。正確には嘘とは呼べないんだが。何しろお前自身は、一度も自分のことを魔法使いだとは言わなかったんだから」
「ナツは……」
と、ソラは少し不安そうにナツのことを見る。
「そのことも、もうわかっているのか?」
「――〈運命遊戯〉だろうな」
ナツが言うと、ソラはこくりとうなずいている。
「そうだ、〈運命遊戯〉は未来を予言する魔法なんかじゃなくて、〝未来を最適化する方法を教える〟魔法だ。対象者が、術者の望むような結末を迎えるために」
そう――
この魔法は厳密には予言の魔法などではない。それは未来を知るための魔法ではなく、未来を決めるための魔法だった。運命の手引書。それが、〈運命遊戯〉の魔法なのである。
「だから私は、できるだけ予言の通りに行動する必要があった。この魔法は運命を変える選択肢は教えてくれても、運命そのものは変えてくれない。予言の状況を変更するようなことは、極力避けなければならなかった」
「それには、魔法使いのふりをしておくほうがよかった……」
言われて、ソラはやはりうなずく。
「私が魔法使いでないと知れば、お前は興味を失うかもしれなかった。そうすれば、〈運命遊戯〉の魔法はそこで終わってしまう可能性があった」
けれどソラは、その魔法が終わってしまう可能性を、最後に自分で呼びよせようとしたのである。
運命を、壊すために――
「だが、結局はすべてうまくいった?」
「うむ」
少しため息をついてから、ナツはふと思いついたように言った。
「そもそも、これは誰の魔法なんだ?」
「透村操、私の祖父のものだ。祖父が死ぬ直前、私に魔法をかけてくれた」
「……一つ訊くけど、この魔法は死んでからも効果があるのか?」
「どうだろう、わからないな」
ソラは小さく首を振った。
「何しろ、私は魔法使いじゃないんだから」
ナツは疲れたように、一度大きく息をついた。
「運命、ね。確かにそれは便利な魔法だろうな。サイコロの目を、自分の都合のいいように操作できるんだから」
けれど――
その魔法がありながら、透村操はその息子夫婦を失ったのである。その魔法は未来を前もって知らせてくれるような、そんなものではなかった。
「祖父はいつも悲しそうな顔をしていた。それに、どうしてだか私が悲しくなってしまうくらい、優しかった。祖父はいつも言うんだ。『ソラや、お前は強くならなければならないよ。そうしないと、お前の両親はずっと心配したままでいなくちゃならないからな』そう、まるで泣くかわりに笑うみたいにして、言うんだ」
そっと、夜の風が吹いていった。その風の音はまるで、何かに対して別れを告げているようにも聞こえる。
「ナツの運命を勝手にして悪かったな」
と、ソラはその風に答えるみたいにして言った。
「私の都合だけで、な。本当はそんなことすべきじゃなかったんだ」
「これは、俺の望んだことだよ」
ナツは同じようにして言った。
「ソラの都合とは関係のないところでな」
「〝俺〟……?」
きょとんとしたように、ソラはナツのほうを見た。今確かに、ナツは自分のことを「僕」ではなく「俺」と呼んでいる。
「お前、本当にナツなのか? さっきの、もう一人のナツじゃないだろうな?」
ナツはけれど、そこだけは相変わらずのどうでもよさそうな顔で、
「どっちだっていいだろ」
と、肩をすくめるように言った。
「どっちだって、俺はナツなんだ。魂が半分しかなくたって、な。もう半分の魂だって、それはもう一人の俺のものではあったけど、今では俺の中にしっかりくっついてる。兎と鳥の絵を、一つのものとして同時に描けるみたいに。少なくとも、そんなふうに考えることはできるんだ――」
ソラはしばらく黙っていたが、
「そうだな」
と、つぶやくように言った。
「そうかもしれないな――」
二人は誰もいない駅前の、物言わぬ街灯だけが照らすベンチに座っている。
その手を軽く、結びあわせて。
暗い夜の下で、それでも互いの存在を見失わないように――
やがて駅前に一台の車がやって来て、それには桐子と樹が乗っていた。
車から降りた桐子はベンチのところまで駆けてくると、何も言わずにソラのことを抱きしめている。とても強く、有無を言わさぬ調子で。
「……苦しい」
とソラが言って、桐子はようやく手を離した。それでもまだ足りなそうに、桐子は真剣な顔でソラのことを見つめている。
実の息子より、ソラのほうが優先らしい。ナツは別にそこまでして欲しいとは思わなかったが、それでも何だかよくわからない複雑なものはある。
そんなナツの頭に樹が手を乗せて、軽く叩くようにしてなでている。どちらかといえばそれは、髪をくしゃくしゃにするだけだったが。
「二人とも、怪我はないね――?」
樹はその場の状況としては、どちらかというとおっとりした口調で訊いた。
「指を切ったくらいだよ」
そう言って、ナツは左手の人さし指を見せる。血はもう完全にとまっていて、おまけにそれは自分で切ったものだった。
「……これくらいなら、唾をつけとけば治るな」
樹はこともなげな顔をしている。実の子供に対しては厳しい両親だった。
「ソラちゃんは大丈夫?」
と桐子はまだソラのことをのぞきこみながら言った。
「大丈夫だ」
ソラはこくんと、うなずいている。ソラ自身は傷一つ負っていない。
「――さて」
と、一度手を叩いて、樹は言った。これからちょっと話をまとめようか、という具合に。
「大体の事情はお母さんから聞いたよ。魔法だとか完全世界だとか、ちょっと信じられないけど、事実なら仕方がない。あるものはあるんだから、否定してもはじまらないからね」
その態度は、本質的には息子のそれと同じもののようだった。
「でも、二人とも無事でよかった。話を聞いたときは驚いたけど、まあナツのことだから大丈夫だとは思ったんだ。何しろ、ナツは僕よりしっかりしてるからね」
樹はそう言って、のんびりと笑っている。確かに少々、変わった父親だった。
「それから、ソラちゃんのことも聞いたよ。ご家族を亡くしたとか。それは本当に、辛くて悲しいことだ。僕らにも、それは少しはわかるよ――そこで、一つ提案があるんだ」
「提案?」
と、ソラが訊きかえす。
「そう――」
樹はひどく透明に笑ってみせた。
「僕らはこうして不思議な力で関わりあいを持ったわけだし、それは何かの運命みたいなものだと思うんだ。その運命はたぶん、温かくて居心地のいい場所を用意してくれてる。きっと、神様か何かが気を利かしてくれたんだろうな」
それから、桐子が次の言葉を引きとった。
「ねえ、ソラちゃん。あなた私たちといっしょに暮らさないかな?」
「え……」
「私たちの家に来ない、ソラちゃん? 細かいことはまだどうなるかよくわからないけど、でもそれって素敵なことだと思わないかな」
「でも、私は……」
ソラはどう返事をしていいのかわからずに、うつむいてしまっている。「だって、私はそんな……」
「これは、僕らが望んだことなんだよ」
樹はまたもや、自分の子供と同じようなことを言った。
「僕らが君といっしょにいたいと思ってるんだ。血のつながりがなくても、君がどう思ったとしても。いや、それも少し違うな。僕らはお願いしてるんだ。君といっしょにいさせて欲しいって――」
ソラはうつむいたまま、唇をかみしめるようにしている。
けれど樹の言葉を聞いた瞬間、ソラの胸の中にずっとあり続けた何かが、すっと消えてしまっていた。そしてソラの目からは、涙がぽろぽろ零れ落ちていく。
それは、自分でもよくわからない涙だった。
何かがとても悲しくて、悲しくて――
何かがとても嬉しくて、嬉しくて――
ソラはそれで、泣いていた。
胸にずっと穿たれていた空白から何かがあふれ出すように、涙がとまらなかった。その空白は今は、何もない空間にただ白い雲と青さだけが広がるように、ソラの心を優しく満たしていた。
ソラはたぶんその時――
ようやく、自分の
「僕らのお願いを聞いてくれるね、ソラ?」
「――うん」
ソラは泣きながら、うなずいている。
〝見えない血が世界を交わらせる〟
奇妙な運命のサイコロが最後に出した、それが答えだった。
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