名前も知らない駅のベンチに、二人は座っていた。

 終電もなくなった駅の構内はすっかり眠りについていて、改札も受付け窓口も閉められている。ホームや駅舎の白い蛍光灯だけが、海底でも照らすようにして今も変わらずに点灯されていた。駅のまわりに広がる暗闇には、街灯や人家の明かりが所々に光っている。夜空に輝く星々のように、その光は何かを伝えようとしているようにも見えた。

 時々、風が吹いてきて、どこかへ通りすぎていった。夏はすっかり、昼の暑さを忘れてしまったようでもある。

 夜明けまでは、まだだいぶ時間があった。

「…………」

 ナツとソラは、駅前のベンチに並んで座っていた。切符の代金は、遊園地代の残りを使って払っている。駅員はさすがに不審そうな顔をしたが、とりあえずは咎められるようなこともなく改札は抜けていた。

 それから駅の公衆電話を使って、ナツは家に連絡をとった。今頃は桐子と、帰ってきたばかりの樹が、車でこちらに向かっているはずだった。

 二人は世界から忘れられたようなその場所で、それを待っている。

「……いくつか、言っておかなくてはならないことがあるんだ」

 ソラは不意に、夜の星がつぶやきでもするように言った。

「ああ――」

「まず、使

 ちょっと黙ってから、ナツは言った。

「……何となく、それはわかってた」

「わかってた?」

「それがわかることはいくつかあるんだが、まずはじめにコンパスのことがある」

「コンパスって、これのことか?」

 そう言いながら、ソラはポケットから例の〝天使〟の絵が描かれたコンパスを取りだした。

「持ってたのか」

 それを見て、ナツは〝観測魔法〟でソラの存在に気づいたことに納得した。要するにそれは、自分の魔法による影響だったのである。自分でつけた目印を探すようなものなのだから、無意識に見つけだせたのだろう。

「――私がもらったものを、私が持っていて悪いことがあるのか?」

 ソラはちょっと不服そうに言い返している。

「それはまあ、いい。とにかく、その絵のことだ」

 ナツはとりあえず、話を元に戻した。

「絵がどうかしたのか?」

「あの時、お前がどうしたか覚えてるか?」

「うむ?」

 ソラが首を傾げると、ナツは言った。

「お前はあの時、。これがすぐに魔法のかかったものだと気づいてもよかったのに、お前はまるでそのことに気づいてなかった」

「あれは、それどころじゃなくて……」

 ソラは何故か、しどろもどろになった。

「――まあ、そうかもしれない。だが、疑いを抱くには十分だった。それにおかしなことは、ほかにもいくつかあった」

 ナツはイスにもたれながら、少し疲れた様子で言う。何しろ〝魂〟を現実化したのだから、相当なものといってよかった。

「遊園地、あの時だってそうだ。お前なら〝潜行魔法〟に気づいてもよさそうなものだったのに、まったくそんな様子はなかった。あいつらの言うとおり、訓練された魔法使い同士ならほとんど意味がないはずなのに」

「…………」

「それから、あのループ空間に閉じこめられたときもそうだ。あの時だって、お前がそれに気づいた様子はなかった。あれだけの魔法だったっていうのに――ほかにも細々したことはあるんだが、まあそれはいい。問題はそんなことじゃなくて」

 ナツはそこでちょっと、うかがうようにソラのほうを見た。

「――どうして、そんな嘘をついたのか、ということだな。正確には嘘とは呼べないんだが。何しろお前自身は、一度も自分のことを魔法使いだとは言わなかったんだから」

「ナツは……」

 と、ソラは少し不安そうにナツのことを見る。

「そのことも、もうわかっているのか?」

「――〈運命遊戯〉だろうな」

 ナツが言うと、ソラはこくりとうなずいている。

「そうだ、〈運命遊戯〉は未来を予言する魔法なんかじゃなくて、〝未来を最適化する方法を教える〟魔法だ。対象者が、術者の望むような結末を迎えるために」

 そう――

 この魔法は厳密には予言の魔法などではない。それはための魔法ではなく、ための魔法だった。運命の手引書。それが、〈運命遊戯〉の魔法なのである。

「だから私は、できるだけ予言の通りに行動する必要があった。この魔法は運命を変える選択肢は教えてくれても、運命そのものは変えてくれない。予言の状況を変更するようなことは、極力避けなければならなかった」

「それには、魔法使いのふりをしておくほうがよかった……」

 言われて、ソラはやはりうなずく。

「私が魔法使いでないと知れば、お前は興味を失うかもしれなかった。そうすれば、〈運命遊戯〉の魔法はそこで終わってしまう可能性があった」

 けれどソラは、その魔法が終わってしまう可能性を、最後に自分で呼びよせようとしたのである。

 運命を、壊すために――

「だが、結局はすべてうまくいった?」

「うむ」

 少しため息をついてから、ナツはふと思いついたように言った。

「そもそも、これは誰の魔法なんだ?」

「透村操、私の祖父のものだ。祖父が死ぬ直前、私に魔法をかけてくれた」

「……一つ訊くけど、この魔法は死んでからも効果があるのか?」

「どうだろう、わからないな」

 ソラは小さく首を振った。

「何しろ、私は魔法使いじゃないんだから」

 ナツは疲れたように、一度大きく息をついた。

「運命、ね。確かにそれは便利な魔法だろうな。サイコロの目を、自分の都合のいいように操作できるんだから」

 けれど――

 その魔法がありながら、透村操はその息子夫婦を失ったのである。その魔法は未来を前もって知らせてくれるような、そんなものではなかった。

「祖父はいつも悲しそうな顔をしていた。それに、どうしてだか私が悲しくなってしまうくらい、優しかった。祖父はいつも言うんだ。『ソラや、お前は強くならなければならないよ。そうしないと、お前の両親はずっと心配したままでいなくちゃならないからな』そう、まるで泣くかわりに笑うみたいにして、言うんだ」

 そっと、夜の風が吹いていった。その風の音はまるで、何かに対して別れを告げているようにも聞こえる。

「ナツの運命を勝手にして悪かったな」

 と、ソラはその風に答えるみたいにして言った。

「私の都合だけで、な。本当はそんなことすべきじゃなかったんだ」

「これは、俺の望んだことだよ」

 ナツは同じようにして言った。

「ソラの都合とは関係のないところでな」

「〝俺〟……?」

 きょとんとしたように、ソラはナツのほうを見た。今確かに、ナツは自分のことを「僕」ではなく「俺」と呼んでいる。

「お前、本当にナツなのか? さっきの、もう一人のじゃないだろうな?」

 ナツはけれど、そこだけは相変わらずのどうでもよさそうな顔で、

「どっちだっていいだろ」

 と、肩をすくめるように言った。

「どっちだって、俺はナツなんだ。魂が半分しかなくたって、な。もう半分の魂だって、それはもう一人の俺のものではあったけど、今では俺の中にしっかりくっついてる。兎と鳥の絵を、一つのものとして同時に描けるみたいに。少なくとも、そんなふうに考えることはできるんだ――」

 ソラはしばらく黙っていたが、

「そうだな」

 と、つぶやくように言った。

「そうかもしれないな――」

 二人は誰もいない駅前の、物言わぬ街灯だけが照らすベンチに座っている。

 その手を軽く、結びあわせて。

 暗い夜の下で、それでも互いの存在を見失わないように――


 やがて駅前に一台の車がやって来て、それには桐子と樹が乗っていた。

 車から降りた桐子はベンチのところまで駆けてくると、何も言わずにソラのことを抱きしめている。とても強く、有無を言わさぬ調子で。

「……苦しい」

 とソラが言って、桐子はようやく手を離した。それでもまだ足りなそうに、桐子は真剣な顔でソラのことを見つめている。

 実の息子より、ソラのほうが優先らしい。ナツは別にそこまでして欲しいとは思わなかったが、それでも何だかよくわからない複雑なものはある。

 そんなナツの頭に樹が手を乗せて、軽く叩くようにしてなでている。どちらかといえばそれは、髪をくしゃくしゃにするだけだったが。

「二人とも、怪我はないね――?」

 樹はその場の状況としては、どちらかというとおっとりした口調で訊いた。

「指を切ったくらいだよ」

 そう言って、ナツは左手の人さし指を見せる。血はもう完全にとまっていて、おまけにそれは自分で切ったものだった。

「……これくらいなら、唾をつけとけば治るな」

 樹はこともなげな顔をしている。実の子供に対しては厳しい両親だった。

「ソラちゃんは大丈夫?」

 と桐子はまだソラのことをのぞきこみながら言った。

「大丈夫だ」

 ソラはこくんと、うなずいている。ソラ自身は傷一つ負っていない。

「――さて」

 と、一度手を叩いて、樹は言った。これからちょっと話をまとめようか、という具合に。

「大体の事情はお母さんから聞いたよ。魔法だとか完全世界だとか、ちょっと信じられないけど、事実なら仕方がない。あるものはあるんだから、否定してもはじまらないからね」

 その態度は、本質的には息子のそれと同じもののようだった。

「でも、二人とも無事でよかった。話を聞いたときは驚いたけど、まあナツのことだから大丈夫だとは思ったんだ。何しろ、ナツは僕よりしっかりしてるからね」

 樹はそう言って、のんびりと笑っている。確かに少々、変わった父親だった。

「それから、ソラちゃんのことも聞いたよ。ご家族を亡くしたとか。それは本当に、辛くて悲しいことだ。僕らにも、それは少しはわかるよ――そこで、一つ提案があるんだ」

「提案?」

 と、ソラが訊きかえす。

「そう――」

 樹はひどく透明に笑ってみせた。

「僕らはこうして不思議な力で関わりあいを持ったわけだし、それは何かの運命みたいなものだと思うんだ。その運命はたぶん、温かくて居心地のいい場所を用意してくれてる。きっと、神様か何かが気を利かしてくれたんだろうな」

 それから、桐子が次の言葉を引きとった。

「ねえ、ソラちゃん。あなた?」

「え……」

「私たちの家に来ない、ソラちゃん? 細かいことはまだどうなるかよくわからないけど、でもそれって素敵なことだと思わないかな」

「でも、私は……」

 ソラはどう返事をしていいのかわからずに、うつむいてしまっている。「だって、私はそんな……」

「これは、僕らが望んだことなんだよ」

 樹はまたもや、自分の子供と同じようなことを言った。

「僕らが君といっしょにいたいと思ってるんだ。血のつながりがなくても、君がどう思ったとしても。いや、それも少し違うな。僕らはお願いしてるんだ。君といっしょにいさせて欲しいって――」

 ソラはうつむいたまま、唇をかみしめるようにしている。

 けれど樹の言葉を聞いた瞬間、ソラの胸の中にずっとあり続けた何かが、すっと消えてしまっていた。そしてソラの目からは、涙がぽろぽろ零れ落ちていく。

 それは、自分でもよくわからない涙だった。

 何かがとても悲しくて、悲しくて――

 何かがとても嬉しくて、嬉しくて――

 ソラはそれで、泣いていた。

 胸にずっと穿たれていた空白から何かがあふれ出すように、涙がとまらなかった。その空白は今は、何もない空間にただ白い雲と青さだけが広がるように、ソラの心を優しく満たしていた。

 ソラはたぶんその時――

 ようやく、自分のあおぞらを取り戻したのだ。

「僕らのお願いを聞いてくれるね、ソラ?」

「――うん」

 ソラは泣きながら、うなずいている。


〝見えない血が世界を交わらせる〟


 奇妙な運命のサイコロが最後に出した、それが答えだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る