7
「――終わったようだな」
と、雨賀はふとつぶやいた。
「?」
ソラがそれに気づいて、窓の外から視線を外し、ちょっと不思議そうに雨賀のことを見る。
すでに、いくつかの駅を通りすぎていた。そのあいだ、電車に乗る者はいないし、当然降りる者もいない。目的の駅に着くまでは、まだだいぶ時間があった。夏の夜は相変わらず、どこか薄ぼんやりとした様子で世界を覆っている。
「あの小僧だよ、久良野奈津。やはりここまでやって来た」
と雨賀は煙草を口から離し、無感情に告げた。
「嘘だ」
ソラはぎゅっ、と膝の上で拳を握る。
「本当さ」
雨賀はソラのほうを見ようともせずに言った。
「〈暗号関数〉だよ。〝久良野奈津がドアを開ける〟条件で、〝魔法が発動する〟ようにしてあった。あいつはそれにひっかかった。やつがここまでたどり着くことはない。どこまで行っても平行線が交わらないようにな。そして、人は永遠に耐えられるようにはできていない。残念だが、あの小僧の精神は今頃壊れかけているところだろう」
「ナツは――」
とソラは何かを言おうといして、けれどどんな言葉も浮かんではこなかった。
「――そんなはずはない」
「ある意味では、予言のとおりだ」
雨賀はかすかにため息をつくようにして言った。
「〝五人目がすべてを決定する〟〝心臓に十字の杭が打ち立てられ〟てな。可哀そうなことをしたが、これもある意味ではやつの望んだことだ」
「ナツがそんなことを望むはずがない……!」
そう言ったソラの声は、強く叩きすぎて壊れそうなピアノの音に似ていた。
「いいや、それは違うな」
雨賀は残酷ですらない無慈悲さで告げる。
「やつは完全世界を求めた。だからここまで来たんだ。それはまだやつにとって失われたわけじゃなかった、やつはそれを諦めるわけにはいかなかった」
「…………」
ソラは真空中に言葉が失われるようにしながら、首を振っていた。
(違う、そんなものじゃない――)
と、ソラは思っていた。
久良野奈津は、完全世界なんかのためにここまでやって来たわけじゃない。あの少年はむしろ、この不完全世界のためにこそそうしたのだ。
この壊れやすい世界を――
この夢みたいに儚い世界を――
それを、守るためにこそ。
「ナツは――」
ソラが言おうとした、その時――
※
それは、ほんの小さな約束だった。
二人の少年が生まれる前に交わした、小さな約束――
この世界で言葉が生まれる前に交わされた、小さな約束――
それはただの思いつきのようなささやかなものではあったけれど、確かに約束と呼んでいいはずのものだった。
〝ねえ、交換しない?〟
互いの存在が世界で一番近い距離にある場所で、一人が言った。
〝交換?〟
それと同じもう一人が、訊きかえす。
〝そう、ボクたちは同じ存在だけど、魂まで同じってわけじゃない〟
〝うん〟
〝この世界がどんな場所かはわからない。そこは冷たいかもしれないし、熱すぎるかもしれない。でもボクたちは、お互いを助けあえると思うんだ〟
〝そうだね〟
〝だから、ボクたちの魂を半分ずつ交換しあおう。そうすれば、きっと何があっても大丈夫。いつだって相手の中に、自分の半分が残っているんだから〟
――それは、魂の生存戦略とでも呼ぶべきものだったのかもしれない。遺伝子が二重構造をもって自己保全を図っているように、魂を二重構造化して自分たちを守ろうとしたのである。
けれど、それは始まりもしないうちに終わってしまっていた。
二人のうちの一人は、生まれる前に死んでしまった。そして魂の半分を失った一人だけが、この不完全な世界に残されていた。
この世界では、どんな大切なものでも失われるし――
どんなに小さな約束でも、破られてしまう――
だからナツは、どこかで思っていたのだ。
人は運命の前では、何もできないのだと。いくら抗おうと、いくら知恵をつけようと、いくら魔法を使おうと、その巨大な歯車をどうにかすることなどできないのだ、と。
けれど――
けれど透村穹は、あの少女は――
「みんなが望んだから、私は生かされている。私が生きていれば、みんなの望みを叶えることができる。だから、大丈夫だ。私は一人で生きているわけじゃない」
※
ソラが言おうとした、その時――
ガシャン
という音がして、二人のいる車両との連結部が開かれている。
そこには、ナツが立っていた。
「……馬鹿な」
雨賀は思わず手に持った煙草を落としながら、席から立ちあがっている。
けれど――
世界を大きな魔法の揺らぎが覆っていることに、雨賀は気づいていた。世界のすべてを変えてしまいそうな、そんな揺らぎが。そう、これは――
雨賀の隣で、ソラも立ちあがって後ろを振りむいている。
「ナツ……?」
けれどソラは、どこか戸惑うようにして言った。ソラには何故か、それが自分のよく知っている少年には見えなかったのだ。
ナツはどこかぼんやりした様子で顔をあげ、二人のほうを見た。
その左手の指先からは、赤い雫が滴り落ちていた。二人から確認することはできなかったが、ナツの服の下、その胸の中央付近には、赤い十字の記号が描かれていた。〝心臓に十字の杭が打ち立てられ〟ていたのである。
「――何故だ」
雨賀は混乱しながらも、ナツと向かいあうようにして通路に立った。
「どうしてお前は、あの〈虚数廻廊〉を抜けだした。それもまったくの無事で――!」
ナツはあたりを確認するような、はじめて世界を認識するような、そんな顔をしていたが、
「正確には、オレはナツじゃない」
と、いきなりそんなことを言った。
「……何だと? どういう意味だ、それは?」
「言ったとおりだよ」
ナツは――もう一人のナツは、落ちついた様子で答えた。
「旧い約束なんだ。〝ボクたちはお互いを助けあえる〟。オレたち二人がまだ生まれる前に交わした約束、魂の半分を交換しあって結んだ約束――」
雨賀は訳がわからないといった具合に顔をしかめている。その横で、ソラはナツの言葉の意味をほぼ正確に理解していた。
「ナツの魔法、その〈
雨賀はやはり、訳がわからないといったふうに首を振った。けれど、
「お前が、久良野奈津の別人格だか、もう一つの魂だかというのは、まあいい。魔法のことだ、そんなこともあるかもしれん。あの小僧の、〈幽霊模型〉が魂さえ現実化するとしても、な」
「…………」
「だが問題は――問題は、お前がどうやってあの空間を抜けだしてきたのか、ということだ。あそこからは、誰も出てはこられないはずだ。あの、どこにもつながっていない場所からは」
その質問に、ナツはしばらく黙っていたが、
「空間をループさせる魔法、それはある意味では、オレの魔法とよく似ていた。あの時、魂を交換するときに使った魔法と。魂を移動させるために使った、オレの魔法と」
「……?」
「〈
同一平面上に存在する二点を結ぶ最短距離は、直線である。けれどそれが三次元でのことなら、話は違う。その平面を紙のように折りたたんでしまえば、線を引く必要もなく二点間の距離は消滅してしまう。
それは雨賀秀平の〈虚数廻廊〉とは真逆の魔法だった。空間を
雨賀はいまやはっきりと、そのことを認識していた。雨賀がループさせた空間は、ナツの魔法によって完全に元に戻されていたのである。
「……どうやら、お前が予言された〝五人目〟で間違いないようだな」
と、雨賀は言った。
「だが、それがどうした? まだ何も終わってはいない。それに、言ったはずだ。お前には理由がない、と。お前にはこの娘を助ける必然性も、必要性も存在していない」
「理由、か――」
ナツは小さくつぶやいた。
「確かに、そんなものはオレにはないのかもしれない。オレとソラは何の関係もない人間だし、出会ったのもただの偶然だ。だけど、あんたにはそれがあるっていうのか? それだけの理由が」
「あるさ、〝完全世界〟を取り戻すためだ」
迷いもせずに、雨賀は言った。
「そんなこと、理由になんてならない」
とても静かな声で、ナツはそう言った。
「完全世界なんてなくったって、人は生きていけるんだ。そんなものがなくても、オレたちは先に進める。永遠の繰り返しの中で、どこにも行けないと思ったのはあんたのほうだ。でも本当はそうじゃない。あんたは外への一歩を踏みだせなかった、それだけなんだ」
「…………」
「それに、オレには理由がある」
ナツはそう言って、ソラのほうを見た。
「お前はどうして欲しいんだ、ソラ? お前はオレに、どうして欲しい?」
「――――」
ソラは一瞬黙って、けれど叫んでいた。
「私を助けろ、ナツ……!」
その言葉と同時に、雨賀とナツの魔法が発動していた。
一日の長、というやつかもしれない。それは雨賀のほうが、わずかに早かった。雨賀とナツのあいだにある空間が、みるみるうちに拡大していく。
(惜しかったな、小僧……!)
雨賀は内心で、そんなことをつぶやいていた。
けれど――
〝完全な魔法〟、千ヶ崎朝美の言う〝世界を変えるだけの可能性〟を持った力。
その前では、もはや〝不完全な魔法〟となった雨賀のそれでは、所詮は無理だったのである。それでは、ナツの魔法に対抗することはできない。
拡大した空間は、ドミノを倒すようにみるみる縮小していって――
そしてそれが音を立てて弾けたとき――
「……!」
雨賀のすぐ後ろ、ソラの隣に、ナツの姿が出現していた。
「ま――」
待て、と雨賀は手をのばそうとした。永遠の中に、閉じこめようとするように。けれど、
「それはごめんです」
とナツは言って、その言葉だけを残して雨賀の目の前から消えている。
そして次の瞬間には、さっきまでナツのいたところに、二人の姿は移動していた。世界を確かに、作り変えて。
雨賀の手は、すでに何もつかんではいない。
「久良野奈津……!」
今回の出来事で一番最初から出会っていた少年の名前を、雨賀秀平は口にした。
「オレたちは運命に負けたりなんてしない」
ナツは最後に、そう言った。
「運命は過去にしかない。それは未来には存在しないんだ。そこにあるのは、まだ決定していない可能性だけ。無限の数字を持った、一つのサイコロがあるだけ」
「…………」
「そしてそのサイコロを振るのは、オレたち自身だ。もしも失敗したら、もう一度振ればいい。そのサイコロは――オレたちのものなんだから」
電車は駅に到着して、ゆっくりと停車していた。そして音楽的とはいえない音を立てて、ドアが開く。
まるで、運命そのものを開くように――
その向こうには、夏の夜が無限の広がりを持ってつながっていた。
※
再び走りはじめた電車の中で、雨賀はぼんやりと座っている。
車内には、誰もいない。無人の座席だけが、祈りでも捧げるように行儀よく並んでいた。雨賀はぼんやりと、火のついていない煙草をくわえていていた。
「…………」
そうしてちょっと天井を見あげて、ついさっきの光景を反芻する。
だがどちらにせよ、自分たちの負けだった。もう誰にも、あの少年たちを捕まえることはできないだろう。
雨賀はそれから携帯を取りだして、電話をかけはじめた。ほかに乗客がいればマナー違反を注意されるかもしれないが、存在しない人間に文句を言われる心配はない。
「烏堂か? ……ああ、取り引きは中止だ……いや、約束は守られている……そうじゃない、要するに――俺たちの負けだ」
そう告げると雨賀は、烏堂が何か言いかえす前に通話を切った。
これで烏堂だけが人質として残されることになったが、手荒なことはされないだろう。そもそも烏堂の所持する情報は限られたものだし、相手である千ヶ崎朝美のほうにも、情報を故意にもらしたという弱味がある。
「――完全世界なんていらない、か」
雨賀はその言葉の重みを確かめるように、そっとつぶやいてみた。それからふと思いついたように、くわえた煙草に火をつけている。
六年ぶりの煙草の味は、ひどく不味かった。
煙草の煙を吐きだすと、それは車内のぼんやりした光の中へ消えていった。惜別の気配も、別れの言葉さえなく。
――運命に負けたりなんてしない。
あの少年は、はっきりとそう言った。
確かに、それはそうだろう。負けたのは、雨賀たちのほうだった。
「くっ、くっ……」
そう思うと、雨賀は急におかしくなった。何のことはない、それは雨賀自身が倒されるべき〝運命〟だった、ということだ。
「く、ははは――」
雨賀は煙草を口から離し、おかしそうに笑った。
夏の夜はあくまで静かに、柔らかに世界を包んでいる。その闇はどこかに、すでにもう朝の気配を含んでいた。
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