「――終わったようだな」

 と、雨賀はふとつぶやいた。

「?」

 ソラがそれに気づいて、窓の外から視線を外し、ちょっと不思議そうに雨賀のことを見る。

 すでに、いくつかの駅を通りすぎていた。そのあいだ、電車に乗る者はいないし、当然降りる者もいない。目的の駅に着くまでは、まだだいぶ時間があった。夏の夜は相変わらず、どこか薄ぼんやりとした様子で世界を覆っている。

「あの小僧だよ、久良野奈津。やはりここまでやって来た」

 と雨賀は煙草を口から離し、無感情に告げた。

「嘘だ」

 ソラはぎゅっ、と膝の上で拳を握る。

「本当さ」

 雨賀はソラのほうを見ようともせずに言った。

「〈暗号関数〉だよ。〝久良野奈津がドアを開ける〟条件で、〝魔法が発動する〟ようにしてあった。あいつはそれにひっかかった。やつがここまでたどり着くことはない。どこまで行っても平行線が交わらないようにな。そして、人は永遠に耐えられるようにはできていない。残念だが、あの小僧の精神は今頃壊れかけているところだろう」

「ナツは――」

 とソラは何かを言おうといして、けれどどんな言葉も浮かんではこなかった。

「――そんなはずはない」

「ある意味では、予言のとおりだ」

 雨賀はかすかにため息をつくようにして言った。

「〝五人目がすべてを決定する〟〝心臓に十字の杭が打ち立てられ〟てな。可哀そうなことをしたが、これもある意味ではやつの望んだことだ」

「ナツがそんなことを望むはずがない……!」

 そう言ったソラの声は、強く叩きすぎて壊れそうなピアノの音に似ていた。

「いいや、それは違うな」

 雨賀は残酷ですらない無慈悲さで告げる。

「やつは完全世界を求めた。だからここまで来たんだ。それはまだやつにとって失われたわけじゃなかった、やつはそれを諦めるわけにはいかなかった」

「…………」

 ソラは真空中に言葉が失われるようにしながら、首を振っていた。

(違う、そんなものじゃない――)

 と、ソラは思っていた。

 久良野奈津は、完全世界なんかのためにここまでやって来たわけじゃない。あの少年はむしろ、この不完全世界のためにこそそうしたのだ。

 この壊れやすい世界を――

 この夢みたいに儚い世界を――

 それを、守るためにこそ。

「ナツは――」

 ソラが言おうとした、その時――



 それは、ほんの小さな約束だった。

 二人の少年が生まれる前に交わした、小さな約束――

 この世界で言葉が生まれる前に交わされた、小さな約束――

 それはただの思いつきのようなささやかなものではあったけれど、確かに約束と呼んでいいはずのものだった。

〝ねえ、交換しない?〟

 互いの存在が世界で一番近い距離にある場所で、一人が言った。

〝交換?〟

 それと同じもう一人が、訊きかえす。

〝そう、ボクたちは同じ存在だけど、魂まで同じってわけじゃない〟

〝うん〟

〝この世界がどんな場所かはわからない。そこは冷たいかもしれないし、熱すぎるかもしれない。でもボクたちは、お互いを助けあえると思うんだ〟

〝そうだね〟

〝だから、ボクたちの魂を半分ずつ交換しあおう。そうすれば、きっと何があっても大丈夫。いつだって相手の中に、自分の半分が残っているんだから〟

 ――それは、魂の生存戦略とでも呼ぶべきものだったのかもしれない。遺伝子が二重構造をもって自己保全を図っているように、魂を二重構造化して自分たちを守ろうとしたのである。

 けれど、それは始まりもしないうちに終わってしまっていた。

 二人のうちの一人は、生まれる前に死んでしまった。そして魂の半分を失った一人だけが、この不完全な世界に残されていた。

 この世界では、どんな大切なものでも失われるし――

 どんなに小さな約束でも、破られてしまう――

 だからナツは、どこかで思っていたのだ。

 人は運命の前では、何もできないのだと。いくら抗おうと、いくら知恵をつけようと、いくら魔法を使おうと、その巨大な歯車をどうにかすることなどできないのだ、と。

 けれど――

 けれど透村穹は、あの少女は――


「みんなが望んだから、私は生かされている。私が生きていれば、みんなの望みを叶えることができる。だから、大丈夫だ。私は一人で生きているわけじゃない」



 ソラが言おうとした、その時――

 ガシャン

 という音がして、二人のいる車両との連結部が開かれている。

 そこには、ナツが立っていた。

「……馬鹿な」

 雨賀は思わず手に持った煙草を落としながら、席から立ちあがっている。

 けれど――

 世界を大きな魔法の揺らぎが覆っていることに、雨賀は気づいていた。世界のすべてを変えてしまいそうな、そんな揺らぎが。そう、これは――

 雨賀の隣で、ソラも立ちあがって後ろを振りむいている。

「ナツ……?」

 けれどソラは、どこか戸惑うようにして言った。ソラには何故か、それが自分のよく知っている少年には見えなかったのだ。

 ナツはどこかぼんやりした様子で顔をあげ、二人のほうを見た。

 その左手の指先からは、赤い雫が滴り落ちていた。二人から確認することはできなかったが、ナツの服の下、その胸の中央付近には、赤い十字の記号が描かれていた。〝心臓に十字の杭が打ち立てられ〟ていたのである。

「――何故だ」

 雨賀は混乱しながらも、ナツと向かいあうようにして通路に立った。

「どうしてお前は、あの〈虚数廻廊〉を抜けだした。それもまったくの無事で――!」

 ナツはあたりを確認するような、はじめて世界を認識するような、そんな顔をしていたが、

「正確には、はナツじゃない」

 と、いきなりそんなことを言った。

「……何だと? どういう意味だ、それは?」

「言ったとおりだよ」

 ナツは――もう一人のは、落ちついた様子で答えた。

「旧い約束なんだ。〝ボクたちはお互いを助けあえる〟。オレたち二人がまだ生まれる前に交わした約束、魂の半分を交換しあって結んだ約束――」

 雨賀は訳がわからないといった具合に顔をしかめている。その横で、ソラはナツの言葉の意味をほぼ正確に理解していた。

「ナツの魔法、その〈幽霊模型ゴースト・クラフト〉がぎりぎりで〝完全な魔法〟になったおかげで、オレは形になることができた。ナツが〝魂〟の記号を描いたおかげで。そしてあの場所――一人では魂が凍りついてしまうあの場所だからこそ、こんなことが起こったんだ。オレたちは一人じゃないから」

 雨賀はやはり、訳がわからないといったふうに首を振った。けれど、

「お前が、久良野奈津の別人格だか、もう一つの魂だかというのは、まあいい。魔法のことだ、そんなこともあるかもしれん。あの小僧の、〈幽霊模型〉が魂さえ現実化するとしても、な」

「…………」

「だが問題は――問題は、お前が、ということだ。あそこからは、誰も出てはこられないはずだ。あの、どこにもつながっていない場所からは」

 その質問に、はしばらく黙っていたが、

「空間をループさせる魔法、それはある意味では、オレの魔法とよく似ていた。あの時、魂を交換するときに使った魔法と。魂を移動させるために使った、オレの魔法と」

「……?」

「〈純粋回帰エンカウント・メソッド〉――それがオレの魔法だ。〝任意の空間を折りたたむ〟魔法」

 同一平面上に存在する二点を結ぶ最短距離は、直線である。けれどそれが三次元でのことなら、話は違う。その平面を紙のようにしまえば、線を引く必要もなく二点間の距離は消滅してしまう。

 それは雨賀秀平の〈虚数廻廊〉とは真逆の魔法だった。空間を展開デコードするのに対して、空間をいわば圧縮エンコードする――

 雨賀はいまやはっきりと、そのことを認識していた。雨賀がループさせた空間は、の魔法によって完全に元に戻されていたのである。

「……どうやら、お前が予言された〝五人目〟で間違いないようだな」

 と、雨賀は言った。

「だが、それがどうした? まだ何も終わってはいない。それに、言ったはずだ。お前には理由がない、と。お前にはこの娘を助ける必然性も、必要性も存在していない」

「理由、か――」

 は小さくつぶやいた。

「確かに、そんなものはオレにはないのかもしれない。オレとソラは何の関係もない人間だし、出会ったのもただの偶然だ。だけど、あんたにはそれがあるっていうのか? それだけのが」

「あるさ、〝完全世界〟を取り戻すためだ」

 迷いもせずに、雨賀は言った。

「そんなこと、理由になんてならない」

 とても静かな声で、はそう言った。

「完全世界なんてなくったって、人は生きていけるんだ。そんなものがなくても、オレたちは先に進める。永遠の繰り返しの中で、どこにも行けないと思ったのはあんたのほうだ。でも本当はそうじゃない。あんたは外への一歩を踏みだせなかった、それだけなんだ」

「…………」

「それに、オレにはがある」

 はそう言って、ソラのほうを見た。

「お前はどうして欲しいんだ、ソラ? お前はオレに、どうして欲しい?」

「――――」

 ソラは一瞬黙って、けれど叫んでいた。


「私を助けろ、ナツ……!」


 その言葉と同時に、雨賀との魔法が発動していた。

 一日の長、というやつかもしれない。それは雨賀のほうが、わずかに早かった。雨賀とのあいだにある空間が、みるみるうちに拡大していく。

(惜しかったな、小僧……!)

 雨賀は内心で、そんなことをつぶやいていた。

 けれど――

 〝完全な魔法〟、千ヶ崎朝美の言う〝世界を変えるだけの可能性〟を持った力。

 その前では、もはや〝不完全な魔法〟となった雨賀のそれでは、所詮は無理だったのである。それでは、の魔法に対抗することはできない。

 拡大した空間は、ドミノを倒すようにみるみる縮小していって――

 そしてそれが音を立てて弾けたとき――

「……!」

 雨賀のすぐ後ろ、ソラの隣に、の姿が出現していた。

「ま――」

 待て、と雨賀は手をのばそうとした。永遠の中に、閉じこめようとするように。けれど、

「それはごめんです」

 とは言って、その言葉だけを残して雨賀の目の前から消えている。

 そして次の瞬間には、さっきまでのいたところに、二人の姿は移動していた。世界を確かに、作り変えて。

 雨賀の手は、すでに何もつかんではいない。

「久良野奈津……!」

 今回の出来事で一番最初から出会っていた少年の名前を、雨賀秀平は口にした。

「オレたちは運命に負けたりなんてしない」

 は最後に、そう言った。

「運命は過去にしかない。それは未来には存在しないんだ。そこにあるのは、まだ決定していない可能性だけ。無限の数字を持った、一つのサイコロがあるだけ」

「…………」

「そしてそのサイコロを振るのは、オレたち自身だ。もしも失敗したら、もう一度振ればいい。そのサイコロは――オレたちのものなんだから」

 電車は駅に到着して、ゆっくりと停車していた。そして音楽的とはいえない音を立てて、ドアが開く。

 まるで、運命そのものを開くように――

 その向こうには、夏の夜が無限の広がりを持ってつながっていた。



 再び走りはじめた電車の中で、雨賀はぼんやりと座っている。

 車内には、誰もいない。無人の座席だけが、祈りでも捧げるように行儀よく並んでいた。雨賀はぼんやりと、火のついていない煙草をくわえていていた。

「…………」

 そうしてちょっと天井を見あげて、ついさっきの光景を反芻する。

 だがどちらにせよ、自分たちの負けだった。もう誰にも、あの少年たちを捕まえることはできないだろう。

 雨賀はそれから携帯を取りだして、電話をかけはじめた。ほかに乗客がいればマナー違反を注意されるかもしれないが、存在しない人間に文句を言われる心配はない。

「烏堂か? ……ああ、取り引きは中止だ……いや、約束は守られている……そうじゃない、要するに――俺たちのだ」

 そう告げると雨賀は、烏堂が何か言いかえす前に通話を切った。

 これで烏堂だけが人質として残されることになったが、手荒なことはされないだろう。そもそも烏堂の所持する情報は限られたものだし、相手である千ヶ崎朝美のほうにも、情報を故意にもらしたという弱味がある。

「――完全世界なんていらない、か」

 雨賀はその言葉の重みを確かめるように、そっとつぶやいてみた。それからふと思いついたように、くわえた煙草に火をつけている。

 六年ぶりの煙草の味は、ひどく不味かった。

 煙草の煙を吐きだすと、それは車内のぼんやりした光の中へ消えていった。惜別の気配も、別れの言葉さえなく。

 ――運命に負けたりなんてしない。

 あの少年は、はっきりとそう言った。

 確かに、それはそうだろう。負けたのは、雨賀たちのほうだった。

「くっ、くっ……」

 そう思うと、雨賀は急におかしくなった。何のことはない、それは雨賀自身が倒されるべき〝運命〟だった、ということだ。

「く、ははは――」

 雨賀は煙草を口から離し、おかしそうに笑った。

 夏の夜はあくまで静かに、柔らかに世界を包んでいる。その闇はどこかに、すでにもう朝の気配を含んでいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る