深夜の駅には、まるで人気というものがなかった。

 もはや最終電車の出発を待つだけの構内は静かで、一日の仕事もすべて終わり、眠りにつくまでの時間をただ待っているように見える。駅のあちこちを照らす光も、半ば以上は夢の中に沈んでいた。

 その駅の三番線と四番線のホームに、四人の人影が立っていた。

 雨賀、烏堂、朝美、ソラの四人である。予言された一連の出来事のうち、それに関わる四人がここにそろっていた。

「もう一度、最終確認といこうか」

 と、雨賀は言った。ホームに人影はなく、電車はすでに停まっている。車両の緊急点検のため、発車時間の遅延が生じていた。何かの道具が用意され、数名の工員が線路上で作業にあたっている。

「――ええ」

 朝美は相変わらずの、事務的な態度でうなずいた。

「透村穹が所定の場所まで無事に移動したことを確認したら、取り引きは成立だ。俺たちは組織についていくつかのことをあんたたちに教える。その代わりに、俺が〝お姫様〟を目的地まで連れていくあいだ、烏堂があんたといっしょにいる。取り引きが済んだら、あんたは烏堂を解放する」

 無言のまま、朝美はうなずいた。

「……この取り引きは、お互いの〝上〟が決めたことだ」

 雨賀はちょっと黙ってから、特にどういう感情を込めることもなく訊いた。

「だがあんたはそのことを、どう思ってるんだ? 自分が助けた子供を、その相手にまた渡すっていうのは」

「私は委員会の命令に従うだけです」

 朝美はまるで、表情を変えていない。

「それが執行者の役目ですから」

 ふっ、と雨賀は笑った。別にどうだっていいのだが、というように。

「烏堂――」

 と雨賀は傍らの、相棒のほうを振り返っている。

「一応、気をつけておけよ。お前のことだから大丈夫だとは思うが……それと、悪かったな。こんなことにまで巻きこんで」

「僕は別に気にしてませんよ」

 烏堂は幾分のん気そうな感じで、そう言った。

「人質といったって、ただの間にあわせみたいなものですからね。雨賀さんのほうこそ、気をつけてください」

 言われて、雨賀は烏堂のそばに立つソラのほうに視線を向ける。

「…………」

 ソラはただ黙ったまま、何かを考える様子もなくじっとしていた。その表情はもはやすべてのことを諦めて、ただ運命に身を任せているだけのようにも見える。

「……電車が発車するまで、あと三分てとこか」

 腕時計を確認して、雨賀は言った。

「どうやら、このまま何も起こらないみたいだな。久良野奈津とかいったか……あの生意気なガキもどうしようもなかったらしい。あの小僧にはずいぶん手こずらされたが、それも終わりだ。さすがにここまで追ってくることはないだろう」

 雨賀の口調はどこか冷笑的であり、そのくせ感慨めいたものも含まれていた。

 そのあいだも、電車は別の世界からやって来た感情のない獣みたいに、じっとしていた。その巨大な鉄の塊は、ほかのものの運命など知らぬげな様子で、倨傲な無関心の中にある。

 朝美は最後に、雨賀に対して一つだけ質問をした。

「あなたたちはいったい、何をするつもりなんです?」

「――簡単なことだ」

 雨賀はその言葉通り、ひどくそっけなく答える。

「〝完全世界〟を、取り戻すのさ」

 そうして発車を告げるアナウンスが、奇妙な響きかたをしながらホームに伝えられた。点検作業は無事に終了したらしい。雨賀とソラは、乗車口のところへ向かった。

「……?」

 その時、ソラはふと地面の奇妙な模様に気づいた。

 電車の光や照明の加減で、たまたまそうなったのだろう。そこにはちょうど車輪に似た形の影が浮かびあがっていた。運命が、何かをそっと告げでもするかのように。

「気をつけたほうがいいですよ」

 不意に後ろから、朝美がつぶやくように声をかけている。

「誰もが、それを求めるわけではないのですから」

「…………」

 雨賀は何の返事もしないまま、ソラを連れて電車に乗った。車内に人影らしきものは見られない。やがて小さな音を立てて、扉は閉じられた。

 そうして、まるで世界から遠く離れていくように電車は動きはじめている。窓の外にはただ、深い海にも似た暗闇が広がるばかりだった。


 乗客は絵の具でも塗り重ねられたように、一人もいなかった。聞こえてくるのはレールの上を走る車輪と冷房の音だけで、あとは物音一つしない。車内を照らす光は、水と油が分離するみたいに夏の闇を押しのけていた。

 無人のシートがただ並ぶだけの光景は、どこか教会の聖堂のような、そんな雰囲気を漂わせていた。静かに、ただ祈りだけを要求するような、そんな雰囲気が――

 雨賀とソラは電車の、対面シートに座っていた。ソラは窓際でぼんやりと、自分の姿が映った暗い外の世界を見つめている。雨賀は通路側で、何かの紙片を取りだして眺めていた。

「……なるほどな」

 と、雨賀はつぶやいている。その頬は、皮肉めいた感じに微笑していた。

 そのつぶやきをソラは聞いているのか、いないのか、何の反応もしない。が、雨賀は気にせずに続けた。

「〈運命遊戯〉か、まったく厄介な魔法だよ。それにこれを見るかぎりじゃ、ほとんどの予言はもう終わってしまっているらしい」

 雨賀が手に持っていたのは、例の〝予言〟が書かれた紙だった。

 それは昨日、ソラが家を出るときに持ってきたものだった。雨賀にそう、指示されていたのである。

「こいつを知っていれば、ここまで苦労せずにすんだんだがな。応援を一人か二人呼べば、。しかしまあ、そんなことを言ってもはじまらんのも事実だ。過去は変えられん――運命も、な。それに肝心の予言のほうも、まだ終わったかどうかわからん」

 電車の粗い光の下で、雨賀は文章をそっとなぞるように指を滑らせた。

「〝道化師〟――つまり、魔法使いか。それが〝五人〟。そして最後の文章、〝五人目がすべてを決定する〟。つまり五人の魔法使いがいて、五人目が運命を決めるわけだ。とすれば、この〝五人目〟はやはり魔法使いの一人ということだろう」

「…………」

「俺、烏堂、執行者、〈運命遊戯〉の術者、それにあの久良野奈津とかいう小僧――これで〝五人〟なわけだ。とすると、これから現れるであろう〝五人目〟が誰なのかは、考えるまでもないだろう。まあ予言が成立しない場合や、解釈が異なる可能性もあるが、それでもかなりの確率で、な」

 そう言って、雨賀は紙片をたたんでポケットにしまっている。

「――ナツは」

 と不意に窓から視線を外して、ソラはかすかにうつむきながら言った。

「ナツは、ここには来ない」

 雨賀はけれど、断定するように告げた。

「それはお前の願望だ」

 ソラはきっ、と雨賀をにらみつけるようにして言った。

「だがこれはさっき、お前が自分で言ったことだ。ナツがここまで来ることはないだろう、どうにもならなかったらしい……そう、お前が言ったんだ」

「普通なら、な」

 雨賀はまるで、ソラのことなど意に介さずに言った。

「だが世界が〈運命遊戯〉の影響下にある今、そんなことには何の意味もない。運命は術者の意図や意識などとは関係なく、それこそサイコロでも振るみたいに決められていくのさ。例えそれがどんなにでたらめな確率だろうと」

「…………」

「何にせよ、予言はもうすぐ終わる。この、いい加減で下らない遊戯みたいな運命も、もうすぐ決着する。お前が望むべく〝未来〟を手にするかどうかはな――」

 ソラは黙ったまま、また少しうつむいている。座席からは液体の密度が変化するような、電車がカーブするかすかな力動が伝わっていた。

「……そんなはずはない」

 まるで宙空からそっと大切なものを手放すように、ソラは言った。

「私はさよならをしたんだ、あの時、ちゃんと。私はもう、ナツを自分の運命に巻き込むつもりはない。これ以上、迷惑をかけるつもりは。あの時、私たちの運命は別々に分かれたんだ。それが交わることは、もうない……」

 それは――

 運命の糸を自らの手で断ち切るような、そんな口調だった。処刑用の拳銃に自ら弾丸を込めるような、絞首用の踏み台を自ら蹴り飛ばすような、そんな。

 雨賀はそんなソラを見ていたが、不意に煙草を一本取りだして指に挟んでいる。

「六年ほど前のことだ」

 と、この男はいきなりそんなことを言った。

「……?」

 ソラは不思議そうに、雨賀のほうを見る。雨賀は特にどういう表情もないまま、まるで独り言のように続けた。

「俺は街を歩いていた。よく晴れた日だった。場所はごく普通の、どこにでもある繁華街だ。夏のはじめだったが風があって涼しくて、気持ちのいい一日だった。その時の俺には連れがいた。特に用事はなかったんだが、そいつが出かけるように言いだしたんだ。結婚はしていなかったが、俺とそいつはいっしょに暮らしていた」

 言いながら、雨賀は指に挟んだ煙草の先を見つめている。航海士が、夜の空に北極星を探すみたいに。

「それで、ある交差点にさしかかったときのことだ。俺はその前で立ちどまって、煙草に火をつけようとしていた。何故だか、ライターが見つからなくてな。そのあいだに、そいつは横断歩道のところまで行っていた。何人かが、同じように信号待ちをしていた。信号が変わって、みなが歩きはじめた。そいつは俺のほうを見てから、仕方なさそうに歩きはじめた。俺はまだライターを探してた。車が突っこんできたのは、その時だ――」

 とんとん、と雨賀は煙草で肘掛けを無意味に叩いている。

「――車は横断歩道を突っ切って、電柱にぶつかってとまった。フロントが柱の形になって見事にひしゃげていた。運転手は即死だった。あとから聞いた話だと、そいつの血液から薬物反応が出たらしいが、まあそんなことはどうでもいい」

「…………」

「問題なのは、車が憐れな電柱に体当たりするまでに、もっと憐れな人間を三人ほどはねていた、ということだ。その三人には、俺といっしょにいたそいつも含まれていた。その三人のうち二人は軽症で助かったが、そこにそいつは含まれていなかった。そいつと運転手だけが死んだ。俺は煙草の火を探していたおかげで、かすり傷一つ負わなかった。そいつは俺が煙草の火を探していたおかげで、引かなくてもいい貧乏くじを引いた――」

 そう言って、雨賀は煙草をいじる手をぴたりと止めた。

「俺はそれから、煙草を吸わなくなった。少なくとも、火をつける気にはならなかった。俺が煙草を取りだすのは、大抵は魔法を使うときだけだ。たいした意味はない。結局のところ、俺の魔法なんぞ何の役にも立たなかったんだからな」

 不意に雨賀は、ソラのほうを見て言った。

「運命ってやつは、奇妙なものだと思わないか? ほんの些細なことが、意外な結果を生んだりする。ただ天気がよかったというだけのことが、一人の人間を世界から消してしまうこともある――もしも、あの日雨が降っていたら。もしも、あの場所に行かなかったら。もしも、あの時煙草なんか吸おうとしなかったら」

 雨賀はそう言って、皮肉っぽく笑った。

「そんな〝もしも〟を前もってコントロールすることができたら? サイコロの目を、自分の好きなようにしてしまうように。そうすれば、かもしれない。そういう意味では、〈運命遊戯〉は実に便利な魔法だよ」

 それだけのことを言い終えると、雨賀は口を閉ざした。夜の闇が、不意に世界を満たそうとするように。

「どうして……」

 ソラはそんな夜の底で、ふと口を開いた。

「どうして、そんなことを私に話すんだ?」

「――さあ、どうしてだろうな」

 雨賀はたいして興味もなさそうに肩を揺らした。

「ただ、予言てわけじゃないが、俺には予感みたいなものがある」

「……?」

 雨賀は、どこか悪魔じみた様子で言った。



「……わかりました、予定通りですね」

 と、ナツは落ちついた声で言った。

「ええ、大丈夫です。わかってます……いろいろすいません、ありがとうございました」

 そう言って、ナツは携帯電話の通話を切った。といってもそれは、電卓に〝アンテナ記号〟を描きこんだものである。もう用のないそれを、ナツはいつものようにウエストバッグにしまう。

 電話の相手はもちろん、千ヶ崎朝美だった。今のやりとりは、最終確認のためのものである。来理の家で朝美と話したあと、ナツはソラがどうなるかを詳しく聞いた。そしてソラが電車で移動することを知ると、次の駅で同じ電車に乗りこむことにしたのである。

「さてと――」

 ナツはつぶやいて、ホームのほうをうかがう。今いるのは、連絡階段の陰のところだった。やって来た電車から見つからないようにするためである。終電を待つだけのホームに人影はなく、ただ夏の夜だけが静かに眠っていた。

 二人の乗る電車に乗りこんでどうするかということは、ナツは考えていない。力ずくでどうにかできるとは思えなかったが、うまい方法も思いつかなかった。けれど、だからといって諦めるつもりもない。そのことだけは、はっきりしている。

 何故なら――

 この世界はまだ、ソラを失ってはいないのだから。

 遠くの暗闇に、電車の光が現れていた。電車はまるで、その光を運ぶこと自体が目的であるかのように、まっすぐこちらに向かっている。やがてホームをにわかに目覚めさせるようにして、それは到着した。甲高い金属音を立てて、巨大な鉄の塊は停止する。

 ドアが開くと、ナツはすばやく先頭車両に乗った。二人がいるのが、最後尾の車両だということは聞いていた。電車からは一人降りたほかは、それ以上降りる人間も乗る人間もいない。

 再び音を立ててドアが閉まると、電車は時間そのものでも動かすみたいに、ゆっくりと進みはじめた。

「よし――」

 つぶやいて、ナツは後方の車両に向かう。車内は無人で、ただ吊り革だけが所在なげに揺れていた。二つめの車両にも人影はなく、同じ光景が広がっていた。ナツは最後に、最後尾の車両へ移動する。

 連結部のドアに手をかけて、ナツはそれを開けた。

 その瞬間――

 ナツは何だか、嫌な予感がした。それはいつかどこかで感じたことがあるのと、同じもののような気がした。奈落すら存在しない穴の中に、飛び降りてしまったかのような。

 けれどナツは、もうドアの向こう側に足をいれてしまっている。

 そこには――


 今、あとにした車両と、まったく同じ光景が広がっていた。


 もちろん、車内に人影はない。無人の座席が、ナツを無言のまま嘲笑っていた。それは永遠に流れ続ける水路を前にして、静かに感覚が崩壊していくような光景だった。

 窓の外には暗闇が映っていたが、それは夜の闇とは異質のものだった。それはただ、どこにもつながっていないことを示すだけのものだった。蛍光灯の明かりが窓ガラスに反射して、車内の様子を幽霊のように写していた。

 ナツは車両の反対側まで走っていって、連結部のドアを開けた。

 ……するとそこには、まったく同じ光景が広がっている。

 無人の通路を駆けぬけ、またドアを開いた。

 ……同じである。やはりまったく同じ光景が広がっている。

 〈虚数廻廊〉

 それは、あの時と同じだった。ナツとソラが細い路地裏を逃走していたときと同じ――

 空間がループし、閉じている。無限大が裏返ってしまったようなゼロ。それはどこにも行きつかない、ひどく虚ろで、ひどく歪んだ、そんな永遠だった。

 ナツはその中を、走り続ける。もう何度目になるのかわからないドアを開けて、何度目になるのかわからない通路を駆けていく。

 けれど――

 ゼロに何を掛けてもゼロなように、それは無意味な行為だった。底のないコップで、水を汲むことはできない。球体の上をいくら歩いても、その果てにたどり着くことはできない。

 ――それは何も変わることのない、永遠ゼロだった。

 そんな場所からは、人は何も始めることはできないし、何も終わらせることもできない。

 ナツはいつしか、足をとめようとしていた。

 それが何を意味するのかを知りながら。それが、この救いのない永遠にからめとられてしまうことだと、知りながら。

 けれど、人は一人では永遠に耐えられない。魂は、その空虚に耐えるようにはできていない。

 ――ナツはとうとう、足をとめた。

 そしてナツの魂は、凍りつこうとしていた。温度の存在しない膨大な暗闇の中では、すべての光と熱が失われてしまうように。

 それは死よりもなお、悲劇的なことだった。

 ナツは死人のような動きで、ウエストバッグからカッターを取りだした。そのカッターの刃をきりきりと迫りだすと、ナツは――

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