玄関先で朝美を見送った桐子が戻ってくると、ナツはテーブルのイスに座ったままじっとしていた。彼女の息子は時間の流れる音に虚しく耳を澄ますような、そんな表情をしている。

「…………」

 桐子はその前の、さっきまで執行者と名乗る女性のいた場所に座った。

 魔法、委員会、言葉を得て失ったものの一つ、世界を変えてしまう可能性――そんな言葉が、桐子の中にまだ残っていた。けれど結局のところ、そんなものは彼女にとってどうでもいいことだった。

 久良野桐子にとって大切なものは、ただ一つ――

「ナツ、ちょっと外に行こうか……」

 と、桐子はにっこりと笑って声をかけた。時間の流れを、そっと戻すように。


 いつのまにか夜もすっかり遅くなって、夏の闇が世界を覆っていた。不思議に軽く、薄い感じのする暗闇だった。ちょっと強く息を吹きかければ、そのまま吹き飛ばせてしまえそうな、そんな感じの。

 桐子とナツの二人は、そんな暗闇の中を歩いていく。道路には街灯が並んで、銀色の光であたりを照らしていた。時折、自動車のライトが周辺を無造作に切り裂いて通りすぎていく。

 その夜には、まだほんの少しだけ昼の気配が含まれていた。太陽の熱や、ざわめき、伝えきれなかった言葉の名残――そんな気配を消し去ろうとするみたいに、風が流れていく。

 しばらくして、桐子は公園の前で足をとめた。もちろん桐子は、そこがまさしくソラがあの二人に出会った場所だなどということは知らない。彼女は人気がないことを確認すると、その中に入っていった。

 公園には手持ち無沙汰な暗闇が広がるだけで、どこにも人影はなかった。鉄棒やすべり台といった遊具が忘れられたように置かれていて、街灯が空っぽのプールでも照らすように、乱雑な光を放っていた。

 桐子はブランコのところまで行くと、その上に腰かけた。ナツもその横に、同じように座る。ブランコは昼間とは違って、まるで眠っているみたいに軋んだ音を立てた。

「――お父さんのこと、話したっけ?」

 と、不意に桐子は言った。

 ナツはよくわからないまま、首を振る。

「お父さんが言語学者だってことは知ってるわよね?」

 桐子は小さくブランコを揺らしながら、話を続けた。

「私たちがどうやって出会ったかというと――というのは、いいとして――出会ってしばらくした頃、言うわけよ、あの人が。〝言葉っていうのはとても不完全なものだ〟って」

 どこか遠くで、窓の開く音がした。あるいは、閉まる音が。

「詳しいことはわからないんだけど、あの人の研究は要するに、言語の構築過程を調べる、みたいなことなわけ。つまり、どうすれば新しい言語ができるか、ということを調べてるの。そのくせ、〝言語なんていうものは不便で不合理で不適切で、大切なことは正確に伝えられないし、一方で誤解や悪意ばかり広めたりもする。ろくなものじゃない〟って、そう言うの。じゃあ何でそんなものの研究をするんだって聞いたら、こう答えるわけよ。〝それはたぶん、間違えることができるからだ〟って」

 街灯の光に蛾が引きよせられて、小さな羽音が聞こえた。

「あの人は言うわけよ、〝間違うっていうのは、新しい可能性なんだ〟って。人は間違いによって新しい発想を得てきた。人の願望の多くは、間違いによって成りたっている。空を飛ぶこと、海に潜ること、見たこともないものを作ること、存在しないものに名前を与えること。言葉は不完全かもしれない。でもその代わりに、私たちには可能性がある。もしかしたらそれを、自由意志と呼ぶのかもしれないような。ある意味では、運命さえ間違えて――」

「……何だかよくわからないな、それ」

 ナツはちょっと顔をしかめるようにして言った。いかにも父親の言いそうなことだとは思いながら。

「確かにほとんどこじつけだし、屁理屈みたいなものなんだけど、あの人は大まじめにそう言うわけよ。少なくとも、そんなふうに考えることはできるって」

 桐子はくすくす笑って、ナツの言葉を肯定した。それから、月の光みたいな柔らかな微笑を浮かべて言う。

「けどその時思ったのよ、ああ、この人には私がいないとだめなんだ。私にもこの人がいないとだめなんだ、って。そういうことを思うのは、わりとはじめてだったから最初は戸惑ったんだけど、そのうちそれがどういうことなのかわかってきたの。それはすごく単純なことだった。言葉にしても、間違わないくらい――で、私たちは結婚したというわけだ」

 言ってから、桐子は肩をすくめるようにしてナツのほうを見た。

「……ところで、こういう話って聞いてて恥ずかしい?」

「そうでもない」

「私はわりと恥ずかしいけどね」

 桐子は冗談めかして、そんなことを言った。風が吹いて、彼女はちょっと髪を押さえた。

「あんたが生まれたときのこと、覚えてる――?」

「……そりゃあね」

 とナツはできるだけ平気そうな声で言った。

「あの時は、本当に大変だった……」

 桐子はきこきこと、小さくブランコを揺らした。

「普通なら二つあるはずの胎盤と羊膜が一つしかなくてね。血液のこととかで問題があるし、とにかく不安定で私もよく体調を崩してた。本当に苦しくて、辛くて、何でこんなことになったんだろう、ってそんなことばかり思ってた」

「…………」

「でもとにかく、私たちはがんばった。私も、お腹の赤ちゃんも。ちょっと自分でも信じられないくらいに。あの時は、たぶんお父さんがいなかったら耐えられなかった。いろいろなことに神経を使って、いろいろな人に相談して――でも結局、二人ともを助けることはできなかった」

 桐子のブランコは、ゆらゆらと揺れていた。まるで小さなため息をつくみたいに。

「そのことはずっと覚悟してたけど、やっぱりショックだった。あの時ああしてれば、もしもあそこでああしなかったら……そんなことばかり考えてた」

 そう言ってから、桐子はぴたりとブランコをとめた。「でもね――」

「でも、思ったの、ナツが生まれて、もう一人のナツが死んだとき、それでも〝生まれてきてくれてありがとう〟って。この子は生まれてすぐ大切なものの半分を失くしたかもしれないけど、ここはそういう不完全な世界かもしれないけど、でも〝ありがとう〟って」

 桐子はそして、ナツのほうに顔を向けた。

「私には魔法のこととか、この世界のこととか、そんなことはわからない。どう信じていいのかも。でもね、一つだけ確かなことがあるの。それはね――」

 そう言って、桐子はじっとナツのことを見つめた。

「――それはね、ナツが私たちの自慢の息子だっていうこと」

 にこりと、まるでそれが重大な秘密か何かみたいにして、桐子は言った。

「ねえ、そのことは知ってた……?」



 それは昔、ナツが遊園地に連れていかれたときのことだった。

 ナツはほとんど無表情といっていいくらいの顔で、休憩所のベンチに座っている。隣には父親の樹がいた。母親の桐子はいない。たぶん、トイレかどこかに行っていたのだろう。

 遠くのほうを、賑やかな気配とともに人々が歩いていた。友達や、家族連れ、恋人たち、誰もが和やかで親しげな雰囲気を漂わせていた。それ以外のものなんて、どこにも存在しないかのように。

 ベンチのまわりには人がおらず、そこだけが音のスイッチを切られたみたいに静かだった。幼いナツは、視力検査でもするような格好で左目を手で覆い、ただぼんやりとそんな光景を眺めていた。

「――楽しくないのかい、ナツ?」

 不意に、声が聞こえた。見ると、樹がこちらをのぞきこんでいる。よく晴れた真昼の空に、白い月でも発見したような顔つきで。

「別に……」

 ナツは手を下ろして、答えた。本当にそう思っていたから。ナツにとって、ここは意味のある場所ではない。けれど、

「しかし、僕は非常に楽しいんだな」

 と樹は言葉通りの笑顔を浮かべて言った。

 そんな樹を、ナツは不思議そうな顔で見つめる。この父親にはそんなところがあった。秘密の合い鍵でも持っているみたいに、相手の心の重要な部分に入りこんでしまう。

「――僕はナツやお母さんとこうしているだけで、非常に楽しい。楽しくないことをつい忘れてしまうくらい、楽しい。それはとても幸せなことだし、そんなふうにしていられるのはナツのおかげなんだ。例えナツがそうでないとしてもね」

 ひどく自然な態度で、樹はそんなことを言った。鳥が風を受けて空を飛ぶみたいに、とても当たり前に、とても簡単そうに――

「ナツがこの世界にいるだけで、僕は幸せになれるんだ。ナツに意味がないとしても、僕にはそれがある。世界はそんなふうに、バランスをとることもできる。どこかの蝶のはばたきが、思いもよらない運命のきっかけになるみたいにね」

 樹はちょっといたずらっぽい表情を浮かべ、手をひらひらと動かしてみせた。それがどこか遠くの運命を今しも左右している、というふうに。

「でも、お父さんによくったって、僕にとってもそうだってわけじゃないよ」

 ナツは無感動な口調で、そう反論した。それに対して、樹は重々しい動作でうなずいてみせる。

「そう、それはとても大事なことだ。相手を思いやる心。和をたっとぶ信念……だが本当は、そんなことはんだ。そこが温かくて居心地のいい場所であるなら、相手がどんなに嫌がっていても、強がっていても、たいしたことじゃない。相手の事情や、理念にも関係ない。理由だっていらない。何故なら、世界にはそういう場所が必要なんだから」

 そう、樹は言った。

 久良野樹は単なる偽善や、ごまかしや、言い訳としてそれを言ったわけではない。そのことは、ナツにもわかっていた。それはたぶん、何の見映えも、華やかさもないけれど、日常についての大切さ語った言葉だった。

 けれど――

 結局のところそれは、何の意味もない言葉だった。片目で世界を眺めているような今のナツにとっては、理解ができない言葉。底の抜けた器に水を注ぎこむのに似て、その時のナツにはまるで届かなかった言葉。

 でも零れ落ちたその言葉はたぶん、ナツの心のどこかに深く沈みこんで、それを内側から守っていた。長い時間をかけて、ゆっくりと。

 、それでもナツが今のようでいられたのは、たぶんこの両親がいたからなのだろう。



 その日の夜、公園から帰ってナツがまずはじめにしたことは、電話をかけることだった。

 電話の相手はちょうど一年前に知りあった、ある少年である。

 夜もかなり遅くなっていたが、その少年はちゃんと起きていた。以前に聞いたのと同じ、ひどく落ちついた声が電話の向こうから聞こえる。

「頼みがあるんだ」

 と、ナツは単刀直入に言った。相手の少年はそれを咎めもせずに、黙って先をうながしている。

「人を探すのに力を貸して欲しい」

 ナツは真剣に、簡潔に用件を伝えた。

 そう――

 魔法に関することは、魔法使いに聞くのが一番だった。

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