4
翌朝早くに、ナツは家を出発した。
駅まで行って電車に乗り、目的地に向かう。早朝に近い時間帯の電車は、部活か何かがあるらしい学生や、勤め人とおぼしき人影でまばらに埋まっていた。時間の動きはひどくぎこちなく、まだ半分眠っているようでもある。
三つほど駅を過ぎたところで、ナツは電車を降りた。その頃には電車の中はがらがらで、降りたのはナツのほかには誰もいない。
改札を抜けると、バスターミナルに向かった。ほぼ同時にバスが到着して、ナツはそれに乗る。教えられたとおりの時刻だったので、誰かのように待ち時間を無駄にすることはない。
バスは一昔前の、ちょっと古ぼけた感じのするものだった。ナツは前のほうの席に座ると、ぼんやりと窓の外を眺めている。
家を出てからだいぶ時間がたったとはいえ、時刻的にはまだ朝方に近かった。けれど夏の朝はもうすっかり目覚めてしまっているらしく、世界は明るい太陽の光に満たされている。時間の動く音は、いつのまにか滑らかになっているようだった。
しばらくするとナツはバスを降りて、教えられたとおりの道順をたどってその場所へ向かった。蝉の声が、もうかなり賑やかになりはじめている。
その家の前にやって来ると、ナツは表札を確認した。間違いない。声をかけて、中での反応をうかがった。
すると待つほどもなく、一人の老婦人が姿を見せている。
「ようこそ、いらっしゃい。あなたと実際に会うのははじめてよね、久良野奈津くん?」
――佐乃世来理はそう言って、にっこりと笑った。
「どうかしら、お味のほうは?」
と、来理は訊いた。一階の庭に面した居間である。二人はテーブルに載ったお茶を囲んでいた。
「――おいしいです」
ナツは礼儀正しく返答した。ただ正直なところ、ほとんど感想らしいものは持っていない。確かにおいしいとは思うが、それだけである。大抵の場合、そうであるのと同じで。それに今は、それどころでもなかった。
「…………」
そんなナツの様子を、来理はちょっと珍しそうに眺めている。
彼女の言ったように、二人が顔をあわせるのははじめてだった。ただし、お互いのことはすでに知っている。昨夜、ナツが電話で話したのは彼女の孫にあたる少年で、それが二人の接点になっていた。双方ともに魔法使いである、ということも。
居間に面したガラス戸の向こうには、夏の庭が広がっていた。草花は太陽に励まされるように、賑々しく咲き誇っていた。隅のほうには、鮮やかな向日葵の姿もある。床に射しこんだ光は、ものさしで引いたような直線を刻みつけていた。
「それで――」
と、来理は静かな声で訊ねた。
「今日はいったい、どんな御用なのかしら?」
ナツはカップを戻してから、慎重に言葉を選んだ。
「実は、魔術具を貸して欲しいんです」
「魔術具を……?」
来理は言葉の重さを量るようにして首を傾げる。
「理由を聞いてもいいかしら?」
「それが必要だからです」
決意というほどのものでもなく、かといって冗談というわけではない口調で、ナツは言った。
「…………」
澄んでいるわりには不思議に見透しのきかないその瞳をのぞきこんで、来理は言う。
「あなたのことは簡単に聞いているけど、会うのははじめてね。だから私はまだあなたのことを何も知らないわ。あなたがどんな人間で、どんな考えかたをするのか、ということを」
「――はい」
「魔術具というのは、信用のできない相手には簡単には貸せないものよ。それは世界を不正に操作できるようなものなのだから。それに私のしていることは、いわば又貸しみないなものよ。だからそれをするには、〝それなりの理由〟がなければいけないの」
言われて、ナツはしばらく黙っている。記号を描きこんで魔法を具象化させるときと同じで、ゆっくりと言葉を形にするみたいに。
そして――
「まだ、運命を取り戻せるからです」
とナツは言った。
「…………」
その言葉を聞いて、来理はあらためて目の前の少年を眺めてみる。
ナツの瞳はどこまでも真剣で、底意などというものを考える必要がないほどまっすぐだった。何もない青空の中を、飛行機がくっきりとした航跡を残して進んでいくみたいに。
それは種類は違うとはいえ、彼女の孫が時々見せるそれとよく似ていた。この世界を、この不完全な世界を、それでもためらうことなく見つめている、そんな瞳である。
「詳しい話を聞かせてもらえるかしら?」
と、来理は静かに訊ねた。
うなずいて、ナツは今までにあったことをかいつまんで説明する。ソラと出会ったこと、〈運命遊戯〉の魔法、彼女を狙う二人の男のこと、彼女の祖父が知っていたという秘密、二人の男に一度は捕まって、執行者を名乗る女性に助けられたこと、そして彼女の属する委員会が敵対組織と取り引きをして、ソラが連れていかれてしまったこと――
「僕はソラを探すつもりです」
とナツは言った。
「ソラはこの世界でどうしようもなく一人ぼっちで、何の力もなくて――だから誰かが、あいつを守ってやるべきなんです。誰かが、あいつのために何かをしてやらないと。でないと、世界はあまりにひどい場所になってしまうから」
「…………」
来理はその話を最後まで黙って聞いていたが、ちょっと困ったような表情を浮かべている。
「あなたが会った執行者というのは、千ヶ崎朝美さんという人じゃないかしら?」
と、来理は訊いた。
「知ってるんですか?」
「ええ――」
どう話せばいいのか少し迷っている、という様子で来理は言った。
「これは言っておかなければならないのだけど、私は委員会の協力者とでもいうべき立場よ。朝美さんとも顔をあわせたことがある……つまり、委員会がこの件から手を引いたのなら、私としてはあなたに力を貸してあげるのは難しくなる、ということね。形はどうあれ、私は委員会に逆らうことになるのだから」
「――なら、僕に脅されたことにすればいいんです」
ナツはほとんど考えも、ためらいもせずに言った。
「あなたに?」
来理はちょっと驚いた、というふうに何度か瞬きしている。
「小学生の男の子に、私はいったい何を脅されたっていうのかしら?」
「例えば、〝孫をいじめられたくなかったら協力しろ〟とか」
「それは――」
つぶやいてから、来理は軽く絶句してしまった。それは確かに、そうだった。もしもそんなことをされれば、彼女はなかなかに傷ついてしまうだろう。
来理はそう思って、けれど実際にはくすくす笑ってしまっていた。何だかおかしかったのだ。ナツは真顔で、そんなセリフを口にしている。この少年はどこまで本気で、どこまで冗談なのだろう。
「――わかりました、あなたに魔術具を用意しましょう。脅されたのだから、仕方ないわよね?」
ナツは平然とした様子で、うなずいている。それも何だか、来理にはおかしかった。
「……でも、困ったことが一つあるの」
と、来理は急に表情を曇らせて言った。
「困ったこと?」
「あなたはその、ソラという子の居場所を知りたいのだろうけど、特定の個人を見つけるような魔術具は存在しないのよ。似たようなものなら確かにあるのだけど、おそらく今は役に立たないでしょうね。時間がかかりすぎるし、確実性にも欠ける」
「でも何か――」
「ええ、一応はあるわ」
と来理はナツの言葉を遮って言った。
「見つかる可能性は低いけれど、試してみる価値くらいあるものはね。それは宝くじを当てるみたいに本当に低い確率だけど――」
「やります」
来理の言葉が終わるのも待たずに、ナツは即答した。たぶんもう、迷っているような時間は残されていない。
「……いいでしょう」
こくりと、来理はうなずいた。
「少し準備をしてくるから、あなたはここで待っていて。それほど時間はかからないと思うから」
そう言うと、来理は立ちあがって居間から出ていってしまった。
あとにはナツと、まだほんの少しお茶の入ったカップが残されている。外からは蝉の声が聞こえて、まるで雨足が激しくなるみたいに、太陽の光はその強さを増しつつあった。
そしてしばらくすると、来理が戻ってきている。
「準備ができたわ」
と告げられて彼女に案内されたのは、家の奥のほうにある一室だった。その扉が開けられると、中には白い空間が広がっている。壁面は漆喰で固められ、床と天井にはモザイク画のようにして奇妙な模様が刻みこまれていた。厚めの石壁によって囲まれているらしく、空気は思いのほか冷やりとしている。窓はなく、やや広めの牢獄といった感じがしないでもない。
「ここは〝
と、来理はナツを招きいれながら言った。
「といっても、正確にはこれも魔術具の一種というべきなのだけど。この部屋では、魔法の揺らぎを制御しやすくなるの。強さや、方向性、位置、そんなことをね」
説明しながら、来理はナツを部屋の中央に移動させた。そこには特に変わりのない机とイスが置かれている。
そしてその上には、一見すると機械式の天球儀か何かみたいなものが乗せられていた。
「これは〝
「…………」
「可能性が低い、といったように、これで見つけられるかどうかは微妙ね。個人の識別は難しいでしょうし、そもそも距離が離れるほど焦点をあわせるのが大変になっていくの。遠くの星ほど、ぼんやりとした光にしか見えないのと同じでね。感じとしては、衛星写真で見た地球に似ているかもしれないわ。たくさんの光があるけど、そのどれが自分の家のものかはわからない」
来理はその無骨そうな球体の骨組みに、そっと手を触れた。
「この部屋なら多少の補助が得られるとはいえ、あなたがやろうとしていることは、まさしく藁山の中から一本の針を見つけだすような行為よ。そのソラという子の存在を、あなたはほかの何千、何万の光の中から選びださなくてはならない――それでも、やるつもりかしら?」
「はい」
何の迷いもないその答えに、来理は少しだけ笑ってから、ナツを机の前に座らせた。
「魔法の揺らぎを作ったら、うまく魔術具にあわせて。そうしたら、魔術具のほうがそれを魔法の形に変えてくれるわ。細かい操作は、何とか自分で工夫をして」
黙ったまま、ナツはうなずいた。
「……それから、これは消耗の激しい魔法よ。距離が遠いほど、精度が高いほど、魔法を維持するのが難しくなっていく。決して、無理はしないように」
「気をつけます」
ナツは短く、そう答えた。
来理は何かに手をのばそうとして、けれどやっぱりそれをやめたような、そんな表情を浮かべた。彼女が言うべきことは、もう何もない。
「――それじゃあ、がんばって」
部屋を出ていくときに、来理は照明を暗くした。そのほうが集中しやすいから、ということだろう。
扉の閉まる音がすると、あとにはナツだけが残されている。ロウソクをふっと吹き消しでもしたみたいに物音が消え、冷やりとした静寂があたりを覆った。まるで世界が、どこかに消えてしまったようでもあった。
「…………」
ナツは一度大きく深呼吸をすると、ゆっくりと目をつむった。
そして慎重に、魔法の揺らぎを作っていく。
〝観測魔法〟にその揺らぎをあわせると、それはちょうどスタンプでも押すように形が整えられていた。多少のこつは必要だったが、どちらかというとそれは、ナツが普段やっている魔法に似ていた。その場に応じて適宜、揺らぎの形状を調節してやるといったような――
魔法が発動すると、ナツはさっそくその操作にとりかかった。来理が説明したように、それは望遠鏡で星をのぞくのと同じような仕組みだった。全体を見ると細かいところが曖昧になり、倍率を上げれば見える範囲は狭まってしまう。そして検知される人の存在には、最大限に拡大しても有意な違いがあるとはいえない。
ある意味でそれは、真昼の空に星の光の一粒を探しだすのに似ていた。
(ソラ――)
意識を集中しながら、ナツはその少女のことを思った。青空みたいに、いつも自然に笑っていられる少女のことを。
ナツは諦めるわけにはいかなかった。
この不完全な世界を、ナツは守らなくてはならなかった。
「…………」
来理は部屋の外に出てそっと扉を閉めると、しばらくその前でたたずんでいた。
(あの子、似ているかしら)
と来理はふと、そんなことを思っている。久良野奈津という少年と、彼女の孫――
それはまるで種類の違う少年同士ではあったけれど、それでもどこか似ていた。
来理は静かに、扉の向こう側の揺らぎに感覚を澄ませてみる。部屋の中でナツはがんばっているようだったが、必ずしもうまくいっているとはいえない。そもそも、あの魔法では目的をはたすのは難しいだろう。
顔をあげて、来理は少し逡巡するようにしてからその場を離れた。そして廊下の途中にある、電話機のところに向かう。
「私にしてあげられるのは、こんなことくらいね――」
来理は小さくつぶやいて、ある人物のところに電話をかけはじめた。
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