そこはナツの予想したとおり、隣のフロアだった。廊下で確認したのと、入口にあった看板に表示されていたかぎりでは、利用はされていないはずである。実際、そこには元の部屋と同じように、がらんとした空間が広がるばかりだった。

 後ろで、今くぐってきた扉が勝手に閉まっている。それは完全に閉じると、すっかり元の壁に戻っていた。

 壁に〝扉〟の絵を描いたのは、もちろんナツである。ナツの魔法は、記号とそれを付与する対象との相性によっては発動しないこともあるが、今回は成功例になったようだった。もしも壁がもう少しぶ厚かったら、どうなっていたかはわからない。

(うまくいったけど、少し疲れるな……)

 ナツはちょっと息をつきながら思った。

「大丈夫か?」

 とソラがそんなナツを心配そうに見つめる。

「……ああ、大丈夫だ。それよりここから早く出よう。たぶんあの烏堂ってほうが、何か魔法を使ってるはずだ。嫌な予感がする」

 二人は廊下に出ると、周囲を確認した。隣の部屋からは、まだ雨賀と烏堂の二人が出てくる気配はない。

「どうするんだ?」

 ソラが訊くと、ナツは少し考えて、

「屋上に行こう」

 と、言った。ソラはそれを聞いて、怪訝な顔をする。

「でもそんなところに行ったって、このビルからは出られないぞ?」

「玄関では魔法を使われたみたいだから、そっちに向かうと危険な可能性がある」

 ナツはしごく冷静な声で言った。

「大丈夫、屋上から逃げだせるはずだ。僕に考えがある」

「だといいがな」

 あまり期待はしないように、ソラは言った。どちらにせよ、こんなところでぐずぐずしている暇はない。

 階段を昇って、二人は屋上に向かった。幸い、最上階にあった扉に鍵はかかっておらず、簡単に外へ出ることができた。

 屋上にはプールみたいに光がいっぱいで、二人は一瞬目をしばたいた。すぐに目が慣れると、あたりの様子をうかがう。床はコンクリートが剥きだしで、特におかしなところはなかった。周囲には同じようなビルがいくつも並んで、少しだけ空に近い風が吹いていた。

 ソラがふと振り返ってみると、ナツは屋上の扉のところで何かをしている。

「何をしてるんだ?」

 不思議そうに訊ねると、

「〝錠〟を描いてる」

 と、ナツは言った。言葉通り、ドアノブのすぐ下にマジックで鍵穴の絵が描かれていた。

「これで、この扉は開けられなくなった。効果そのものはあまりもたないだろうけど、少しは時間稼ぎになるはずだ」

「けど、これからどうするんだ?」

 ソラはちょっと困った顔をして言った。結局のところ、これではさっきの密室とあまり変わりがない。空を飛んでいけるというなら話は別だが――

「考えがあるって、言ったろ。さっきの〝扉〟と違って、こっちは試したことがあるから大丈夫なはずだ」

 言いながら、ナツはウエストバッグから何かを取りだしている。

 それは、手のひらくらいの大きさになったドーナツ状のものだった。透明な粘着材が幾層にも巻かれた、いわゆるセロハンテープというやつである。どこにでもありそうな、市販のごく一般的なものだった。

 そのセロハンテープの内側に、ナツは何かを描きこんでいる――



 隣の部屋を雨賀がのぞきこんでみると、そこにはすでに誰もいなかった。〝扉〟が描かれたその向こう側とおぼしき壁のところにも、特に変わった様子は見られない。

 烏堂がその後ろから、雨賀の荷物であるボストンバッグを持ってついて来た。

「いませんね」

 現在の状況を、烏堂は端的に表現した。

「ああ、しかし何なんだ、こいつは……」

 雨賀はかすかに、舌打ちしている。あの〝扉〟が魔法であるのは間違いない。しかし、こんな魔法が――

「どこに行ったんですかね、あの二人」

 室内を見渡しながら、烏堂は言った。何もないその空間に、人のいるような気配はない。

「玄関に向かったわけでもなさそうですし」

 念のために携帯を確認しながら、烏堂はつぶやいた。

 もしも二人がビルの玄関付近に向かった場合は、携帯の電話が鳴るように魔法を仕掛けてあった。

 それはもちろん、烏堂の〈暗号関数〉である。

 〝電話をかける〟という行為を、〝二人が一階入口に近づいたとき〟という条件で魔法化してあった。部屋から二人がいなくなったのに気づいたのも、同じ理由である。あの場所から二人がいなくなったとき、という条件で魔法をかけてあった。

「とすると、ビル内のどこかに隠れてるんでしょうか?」

 と、烏堂は妥当な意見を口にした。

「いや、あの生意気なガキがかくれんぼをするつもりがあるとは思えんな」

 雨賀はあっさりと否定する。

「けど、ほかにこのビルから出られる場所なんてありませんよ。飛び降りようっていうんなら、別ですけど」

「――そうか、屋上か」

「え?」

 烏堂は思わず、きょとんとしている。が、雨賀ははっきりと言った。

「ありえない話じゃない。やつの魔法がどんなものかはよくわからんが、脱出経路に利用される可能性はある」

「本気ですか?」

 けれど雨賀は、戸惑う烏堂を残して廊下のほうに向かった。階段を使って、屋上まで駆けあがる。烏堂は荷物を持って、慌ててそのあとに続いた。

 最上階までやってくると、雨賀はその扉を開けようとした――が、開かない。

「……?」

 鍵は、かかっていないはずだった。かなり乱暴に押したり引いたりしてみるが、ドアは融通の利かない門番みたいにうんともすんとも言わない。

「まさか――」

 雨賀はポケットから〝感知魔法〟のペンダントを取りだして、扉の前でかざした。そこからは、かすかな魔法の揺らぎが感じられる。

「くそっ、魔法で開かないようにしてある」

 ナツが魔法で作った〝錠〟である以上、それは同じくナツが魔法で作った〝鍵〟でしか開かないのである。

 とはいえ、その魔法の揺らぎは次第に弱まりつつあるようだった。あと数分もしないうちに、この扉は開けられるようになるだろう。

(ここまでやるとはな……)

 雨賀は苦々しい思いを抱きつつ、魔法の効果が消滅するのを待った。まったくの無関係だったあの少年に、こうまでされるとは思っていなかった。これもやはり、〈運命遊戯〉の――

 ほどなく、扉が開いた。そのあいだに、烏堂が後ろから追いついている。二人は急いで屋上に足を踏みだした。

 けれど、そこには誰もいない。ビルの屋上には陽光がはびこるようにあふれていたが、人の姿はどこにもない。どこかに隠れている、といった気配もない。

「いないみたいですね」

 烏堂は言った。けれど〝錠〟が外側から描かれていた以上、二人は間違いなくこの場所にやって来たはずだった。

 二人は慎重にあたりの様子をうかがう。雨賀はふと、屋上の手すりに何か巻きつけられていることに気づいた。

(何だ――?)

 近づくと、それはどうやらのようである。テープはそのまま、地面の近くまで続いていた。

「どうやら、逃げられたらしいな」

 と、雨賀はつぶやくように言った。

 烏堂がそばまでやって来て、同じようにテープの行方を追う。烏堂はちょっと信じられないという顔をしていた。

「こいつを伝って下まで降りたっていうんですか? いったいどんな魔法を使ったっていうんです、あの子供は」

「それを考えるのはあとでいい」

 雨賀は何故か、ひどく冷静に言った。どういうわけか、この男はもう落ちついてしまったらしい。かといって、追跡を諦めたというわけではなかった。

「〈暗号関数〉の条件はクリアされてるな?」

 と、雨賀は訊いた。

「――ええ、それは大丈夫です」

 少し戸惑いながらも、烏堂は答える。

「なら、やることは一つだ」

 雨賀は烏堂の運んできた荷物から、市街地図とペイント用のスプレーを引っぱりだした。

「あの二人を追って、捕まえる――」

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