4
「よっ――と」
ナツはビルとビルのあいだの隙間みたいな小道に、そっと足を下ろした。セロハンテープはほとんど長さがぎりぎりで、すっかりのびきっている。
「着いたぞ」
背中にしがみついたままのソラに向かって、ナツは声をかけた。ソラは腕をしっかりナツの首にまわし、ぴったりと体を張りつけている。
「もう、大丈夫なのか――?」
いくらか裏返ったような声で、ソラは言う。
「――ああ」
ぎゅっと閉じられていた瞳を、ソラは恐る恐る開いた。それからぎこちない動作で、地面に足を着ける。よほど怖かったらしく、その足元はふわふわとおぼつかないようにも見えた。
あの時、屋上でナツがしたことは、テープの内側に〝鎖〟を描きこむことだった。それで強度を確保して手すりに巻きつけ、ロープ代わりにしたのである。テープの芯をベルトに通して支持し、ソラは背中に負う形にした。
とはいえ、ビルを降りる時間分だけ魔法を維持するのは、かなりの消耗だった。部屋からの脱出以来、立て続けに魔法を使っているのだから、なおさらである。おまけにソラを抱えたまま、ラペリングよろしくビルの壁面を降下していかなければならなかったので、体力も消費していた。
魔法と肉体の疲労――
けれど、こんなところでのんびり休憩している余裕はなかった。
二人がその場を離れると、ちょうど誰かの影が屋上のところにのぞいている。おそらく、雨賀だろう。テープのことに気づいたように、ビルの谷間をうかがっている。二人の脱出に気づかれた、と考えてよさそうだった。
「ナツ――」
と、ソラは相談のためにナツのほうを振りむいた。ナツはちょっと思案するようにうつむいている。
「――問題は、あの連中がどうして僕たちのことを見つけられたか、ってことなんだよな」
とナツは独り言をつぶやくように言った。
「あの時、遊園地にあの二人がやって来たのは偶然じゃない。どうにかして、僕たちの居場所を知ったんだ。あれはやっぱり、魔法だろうな――けど、どんな魔法なのか」
そう言って、ナツはソラのほうを見た。
「何か、そういう魔法のことについて知らないか?」
けれどソラは、力なく首を振っている。
「すまないが、心あたりはない」
半ば予想通りとはいえ、ナツは難しい顔をした。
「――とすると、確かめるしかないわけだ。そうじゃないと、また同じことの繰り返しになる」
「そんなことできるのか……?」
疑義のありそうなソラに向かって、ナツはとりあえず言った。
「わからない。けど、今はここを離れるのが先決だな。できれば人通りの多いところに。そうすれば、簡単には手出しできないだろう」
ソラはうなずいて、二人は走りだした。相手は自動車ということもあるので、できるだけ細くてこみいった道を選ぶ。わざと駐車場を横切ったり、公園を突っ切ったりもした。
(あの二人にはソラの居場所がわかる――それは確かだ。現在位置がわかるのか、足跡みたいなものを追ってきてるのか、それははっきりしないけど)
駆けながら、ナツは周囲への警戒は怠らない。あまり楽しくないとはいえ、形だけ見れば鬼ごっこそのものと言ってよかった。
(でも、その探索機能には何か問題があるはずだ。でなけりゃ、こんなに時間がかかるはずがない。精度が低いのか、条件が難しいのか、やりかたそのものに欠陥があるのか)
しかしいくら考えても、埒が明きそうになかった。最悪の場合、わざと追いつかせてその方法を探る、といったことをしなくてはならないかもしれない。
走りながら、ナツはなおも思考を巡らす。心臓が不平を訴えはじめていた。親切に聞いてやりたいところだったが、そんな余裕はない。
(それにうまく姿を暗ませたとしても、ソラは狙われ続けるだろう。あいつらはたぶん、諦めない。諦めるような理由でソラを追ってるわけじゃない。だとしたら、いつまで逃げればいい? 今回は逃げきったとしても、その次は? そのまた次は? そうなったら、僕は……)
振り返ると、ソラが少し遅れて歩いていた。疲れてしまったのだろう。
(……そうなったら僕は、ソラを守れるんだろうか?)
ナツは立ちどまって、ソラが追いつくのを待った。
車で連れてこられたときの曖昧な記憶によれば、大通りはもう近くのはずである。そこまで逃げれば、おそらく無理に追ってはこないだろう。だがそれでは、問題が解決しないのも事実だった。
ナツは近くにある四辻の、見通しのいい場所で待機することにした。ここからなら、遠くのほうまで警戒することができる。少なくとも、相手の姿が見えたらすぐに逃げだせる程度には。
「少し休憩しよう」
と、ナツは言った。ソラは荒っぽく呼吸をしながら、うなずいている。
そうして塀と電柱の陰になるようにしてナツが身を潜めると、不意にその手を何かにつかまれていた。
「――?」
見ると、ソラがその手をぎゅっとつかんでいる。うつむいたまま、苦しそうにしながら、それでも。
何かにすがるように、何かをたぐりよせるように。
その手はとても小さくて、柔らかくて、ひどく弱々しい感じがした。
つい忘れてしまいがちだが、この少女はちっぽけで、未熟で、一人ぼっちの存在だった。誰かが――
たぶん誰かが、守ってやらなくてはいけないくらい。
ナツは自然とその手を握りかえしていた。余計な言葉は口にせず、ただ黙って。
そのまま、しばらく時間が経過した。雨で空がきれいになったのか、太陽の陽射しは何割か強くなっているようだった。夏の時間はまだ長く、風は午睡でもしているように動きをとめている。
――それから、たいした時間は過ぎていない。
ナツは主に、道の二方向を注視していた。もしもあの二人が追ってくるなら、こちらの方角からのはずである。足跡のようなものをつけてくるのなら、位置的にいってそうなるはずだった。
けれど――
「いいかげん、逃げるのは諦めたほうがいいな」
後ろから、そんな声がかかった。
その人物――烏堂有也は、大通りのほうに向かう道から姿を現していた。明らかに、二人の行き先についての見当をつけている。
烏堂は遊園地で見かけた、あの奇妙な杖を持っていない。そして先回りするように現れたそのことからしても、どうやら別の方法で二人の居場所を探りあてたようだった。
「〈暗号関数〉の条件は満たされている」
と、烏堂は静かに言った。チェックメイトのかかった相手に、声をかけるみたいに。
「君たち二人がどこにいても、僕たちにはその居場所を知ることができる。もう諦めたほうがいい。たぶん、君はよくやったと思うよ、ナツ君。でも結局、それは無駄だったんだ」
ナツがふと気づくと、ソラは両手でナツの手を握っていた。とても強く、しっかりと。
「…………」
ナツはすばやく、背後を確認した。姿を見せたのは烏堂だけで、もう一人の雨賀のほうはいない。どこかに潜んでいるのかもしれなかった。
「――それから今度は、もう少し高めのチップにして欲しいね」
不意にそう言うと、烏堂はポケットから〝耳〟の描かれた白いコインを取りだしていた。カジノでは、主に一番安い賭け金にあてられる色である。魔法の揺らぎに気づけば、見つけるのは容易だったろう。
「君のユニークな魔法には興味があるけど、残念ながらこのまま逃がしてあげるというわけにはいかない」
「……悪いですけど」
と、近づいてくる烏堂に向かって、ナツは言った。
「何があったって、僕も諦めるつもりはないんですよ。例えそれが、運命で決められたことだったとしてもね」
言いながら、ナツはウエストバッグから何かを取りだしていた。
それは、いわゆるスーパーボールというやつである。合成ゴムに加硫して弾性を持たせた、球形の塊。
(何のつもりだ?)
烏堂にも、それは見えていた。けれど、それでどうするつもりなのか。まさかそんなものを投げたくらいで、足どめになるとでも思っているのだろうか。
と、烏堂がそう思っていると、ナツはそのボールをいくつか握ったまま手を振りあげ、地面に叩きつけていた。
普通なら、もちろんボールは地面にぶつかって跳ねかえるだろう。思いきりやれば、十数メートルくらいは飛ぶかもしれない。けれどその時、ナツがボールを地面に叩きつけて起こった現象は、そんなものではなかった。
破裂音、そして――
煙幕があたりを覆っていた。
「何だ、これは――」
烏堂は軽く咳きこみながら、手で煙を払おうとした。が、もちろんうまくはいかない。折から風がとまっているせいで、煙はなかなか晴れることはなかった。
そのまま烏堂がげほげほ言ってどうにもできないでいると、煙が薄れたのか、魔法の効果が切れたのか、視界が次第に開けはじめている。
当然の話ではあるけれど――
煙幕の晴れたその場所には、すでに誰の姿もなかった。
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