翌日の夕方――

 ナツがちょっとコンビニに行ってくると、家の中からソラの姿がなくなっていた。

「――母さん、ソラはどこに行ったの?」

 一瞬はっとして、ナツは慌てたように訊ねる。昨日の今日だけに、さすがに平然とはしていられなかった。

 桐子は台所のテーブルでノートパソコンをいじっていたが、ちょっと顔をあげて、

「ソラちゃんなら買い物に行ったわよ」

 と言っている。

「買い物?」

「近所のスーパーまで、夕飯の材料を買いに。何か手伝うことはないかって聞くから、お使いを頼んだの。本当、偉い子だわ」

「ああ、なるほどね――」

 少し拍子抜けした感じで、ナツはほっとしている。

「……そういえば、昨日言い忘れてたんだけど」

 と、桐子は台所に座ったまま、ナツに向かって言った。

「明日の夜、お父さん帰ってくるわよ。何時になるかはわからないけど」

「用事は済んだの?」

「そりゃね。でもお土産は期待しないほうがいいわね。あの人、センスが独特だから」

「だろうね」

 ナツは簡単に同意した。父親の樹はわざとなのか素なのか、旅行に行くとどこで見つけたのか首をひねりたくなるような、おかしなものを買ってくるのだ。この前は、豪華に表装された元素周期表の銅板を持ち帰ってきた。

「ところでさ……」

 と、桐子は不意に、聞くべきかどうか迷っているような口調で言った。この母親がこんな態度を見せるのは、珍事といっていい。

「何?」

「あんたとソラちゃん、何かあったの?」

 ナツはよくわからないまま、訊きかえす。「――何かって?」

「うーん、私もうまく言えないんだけど、何だかあんたたち仲がよさそうだから。それも昨日から急に。もちろん私としてもそのほうがいいんだけど、ただちょっと、気になったのよね」

「……別に、何でもないよ」

 しばらくのあいだ黙ってから、ナツは桐子のほうは見ずに言った。

 桐子は、「そう?」と言ったきりで、深く追求はしてこない。パソコンに向きなおって、元の作業を続けた。

 そう――

 別に、何でもないのだ。

 ナツとソラが出会ったのは、ただの偶然みたいなものにしかすぎなかった。いくら親しくなろうが、約束を交わそうが、それは変わらない。それはサイコロの数字がたまたま連続して同じだったような、それだけのこと。それは配られたカードの数字がたまたま同じだったような、それだけのこと。

 そんなものはいつか、結局は終わることなのだ。

 季節がいずれ終わるみたいに、永遠には続かない。次に転がしたときには、サイコロの目は変わるし、配られたカードは何の役も作っていない。

 すべての運命は、いつか終わりを迎える――

「…………」

 ナツは一瞬、小さく胸が痛んだような気がして、そっと手をのばしてみた。

 それはたぶん、あまりに曖昧で、不確かで、何かの予感みたいにかすかなものだったせいで、ナツの指先は何にも触れられないでいた。



 ソラは買い物袋を抱えて、家までの帰り道を歩いていた。

 時刻は六時に近づこうとしていたが、夏の季節はその取り分をしっかりと主張していた。外はまだ明るく、太陽は疲れを知らない子供みたいに輝いている。それでも時折吹く風には、すでに夜の涼気が混ざっていた。

 住宅地の道路には、仕事帰りの人や、買い物に出かける主婦、何かの用事を慌てて片づけようとする人などの姿があった。昼の名残が容赦もなく追い払われ、容器は空っぽに戻されようとしている。子供たちは遊びをやめて家に帰り、一日を正しく終わらせるための準備をはじめていた。

 ソラはそんな夕暮れの、一瞬の空白みたいな時間を歩いている。

 買い物袋には、言われたとおりの材料が入れられていた。元々、家事全般をこなすことができたので、メモ通りにお使いをすますのはたいして難しいことではない。

「…………」

 歩きながら、ソラは自分の足どりが変に軽いことに気づいていた。

 足が地面より一センチくらい高いところを踏んでいる感じで、心臓がいつもとは違う鼓動の仕方をしていた。放っておくと自然と頬が弛んできそうで、そのことに少しまごついてしまう。

 買い物袋を握りなおすと、ソラはしっかりと地面を踏んで歩いていく。

 ――ソラは、嬉しかったのだ。

 帰る場所があって、そこで待っている人がいる――

 ただ、それだけのことが、この少女には嬉しかった。例えそれが子供のままごとみたいに、いつか必ず終わってしまうものだとわかっていても。いずれ返さなくてはならない、一時的な借り物みたいなものだとしても。

 それは、この不完全世界でソラが失ってしまって――

 それは、二度とは手に入らないものだと思っていて――

 ソラにはだから、たったそれだけのことが嬉しかった。この世界に、まだきちんとそれが残っているのだということがわかって。

「あれ……」

 気づいたとき、ソラは泣いていた。

 それは、ずっと上空で吹く風みたいに、何の気配もない涙だった。ただ白い雲の動きを見てそうだとわかるような、何の音も手触りもない風のような――

 ソラは涙を拭って、その跡を不思議そうに眺めた。

 自分がどうして泣いているのか、ソラには理解できなかった。まるで、空のどこかから雨粒が一つだけ落ちてきたみたいに。

 だからこの少女は、自分の本当の気持ちに気づかなかった。自分が何を望み、何を恐れているのか――

 ソラにはまったく、わかっていなかった。

「変なものだな……」

 そうつぶやいて、ソラはちょっとおかしそうに笑った。鏡をのぞきこんだら、顔に何か変なものがくっついていたみたいに。

 ソラはそして、また歩きだす。帰るべき場所を目指して。

 けれど――

 けれど、その足はすぐにとまっていた。

 どこかの公園の前である。そこにはもう誰の姿もなくて、世界が空っぽになったような景色が広がっていた。

 その公園の入口のところに、二人の男が立っている。

「あ……」

 と、ソラはそんな、言葉にもならないつぶやきをもらした。

 その男たち二人に、ソラは見覚えがあった。男たちは何をするでもなく、ただじっと立ったままソラを待っている。あの時のように苦労して探しだすことも、無理に追いかけることもない。

 ソラはほんの少しだけうつむいて、けれどそれがどういうことなのかわかっていた。

 運命はそう簡単には諦めてくれないのだと――

 ソラには、わかってしまっていた。


 食卓には料理が並んで、窓の外にはようやく夜の暗闇が広がりはじめていた。誰かが少しずつ絵の具を足しているような、ゆっくりとした広がりかただった。太陽はついに諦めてその姿を消し、別の場所に朝をもたらすために去っていった。

 夕食をとりながら、ソラはずっと笑顔を浮かべていた。桐子が何か他愛のない冗談を口にすると、ソラは手もなく笑ってしまう。本当におかしそうに、本当に楽しそうに――

 ナツは肉じゃがをつつきながら、そんな光景をぼんやりと眺めていた。

 それはたぶん、ごく普通の食事風景だった。

 家族がいて、料理が並んで、一日の報告をしたり、料理について意見したり、冗談を言ったり、笑いあったり、そんな必ず一日に一度はあるような、何ということのない光景。

 けれどソラは――

「どうかしたの?」

 と、桐子は心配そうに、ソラの顔をのぞきこんだ。

 ソラはいつのまにか、泣いていた。たぶん、自分でも気づかないうちに。

「あれ……」

 慌てたように目を拭って、ソラは小さく首を振る。自分でもおかしいな、というふうに。そしてそれだけで、この大切なものをたくさん失いすぎた少女は、もう泣こうとはしていない。

「大丈夫? 急にどうかしたの? どこか痛いとことかはない?」

 桐子は本当の母親みたいな調子で、そう訊いた。

「――何でもない。ただ、何だか嬉しかったんだ」

 そう言って、ソラは顔をあげる。

「本当の家族みたいで。私にも、家族がいるみたいで――それで、何だか涙が出たんだ」

 桐子は黙って、そんなソラを見つめている。そして、言った。

「たぶんソラちゃんは、もう私たちの家族なんだよ。じゃないかもしれないけど、の家族。ソラちゃんがそう、感じたみたいにね。それに例えソラちゃんが嫌だと言っても、私はそんなこと認めないわよ。ね、ナツもそうでしょ?」

 急に話を振られて、ナツはまごついてしまっている。

「――まあ、そうだね」

「何よそのやる気のない返事は」

 桐子は厳しかった。

「……母さんと大体同じ意見だってこと。あまり認めたくはないけど」

 それを聞くと、桐子はどこかの謎めいた猫みたいににんまりと笑っている。

「自分の感情はもっとストレートに表現したほうがいいわよ。でないと、思わぬところで後悔することになるんだから」

「たぶん母さんは、もっと奥ゆかしくなったほうがいいんだよ」

 ナツはため息をつくように、そう言った。

 そんな二人のやりとりを見て、ソラは笑っている。本当に、嬉しそうに。

「――ありがとう、二人とも」

 と、ソラは言った。

 目の端に、雨降りのあとみたいな小さな涙をにじませながら。


 夕食が終わると、ナツとソラはリビングに座ってテレビを見ていた。台所からは、桐子が洗い物をする音が小さく聞こえている。

 テレビ画面では、コップの下に置いたコインが瞬間移動するマジックが披露されていた。よくある定番の手品だったが、こうして見ると魔法よりもよほど不思議なことのような気がした。

 と――

 不意に、ソラが立ちあがっている。別におかしなところはない。ごく自然な動作だった。

「どうかしたのか?」

 と、ナツが声をかけると、

「ちょっと出かけてくる」

 とソラは言った。その言葉どおり、ソラはそのまま玄関に向かっている。

「…………」

 ナツは何となく気になって、自分もそのあとに従った。

「出かけるって、どこに?」

 玄関先に座って靴をはいているソラに向かって、ナツは訊いた。そもそも、このあたりにソラの出かけるような場所などありはしない。

「ちょっとそこまでだ」

「そこまで、って――」

 ソラは靴をはき終えて、立ちあがっている。

 そしてこの少女はちょっと不思議な目で、ナツのことを見た。

 透明で、心の底まで透けて見えてしまいそうな、そんな目で――

 それがどういう意味なのか、その時のナツにはわからなかった。わかったときには、もう手遅れだったのだ。

 ソラはそれ以上の質問と疑問を受けつけない顔で、言った。ほんの少しだけ、笑いながら。

「――いってきます」

 ナツの前で、ドアが音を立てて閉まっていた。



 時計の針が動いて、ほんの小さく空気を震わせた。

 ソラが出かけてから、もう一時間近くがたとうとしている。それは〝ちょっと出かけてくる〟というには、やはり長すぎる時間だった。窓の外では重さのない水みたいに、暗闇が徐々にその水かさを増している。どこかの王様みたいな盲目の瞳が、世界をじっと見つめていた。

 ナツはソファに座ったまま、ぼんやりと考えている。テレビもつけられていなくて、あたりは物音一つないほど静かだった。

 探しにいくべきかどうか真剣に考えはじめたあたりで、ナツはふと気づいていた。

 あの時の瞳――

 ソラのあの不思議なまなざし――

(あれは)

 と、ナツは思っている。

(あれは、何か大切なものを手放そうとする目なんじゃないかな?)

 そう思った瞬間、ナツは思わず立ちあがっていた。行動に心が追いつくまで、少し時間がかかる。息が苦しくなって、その理由が自分でもなかなかわからなかった。

「まさか――」

 と、ナツはようやく、自分でも信じられないといったようにつぶやいていた。だとしたら、ソラは……


 玄関のチャイムが鳴ったのは、そんな時である。


 ナツにはどこか、予感のようなものがあったのだろう。

 自分の部屋から顔を出す桐子に向かって、「――僕が出るからいいよ」とナツは言った。そしてそのまま玄関に向かって、扉を開ける。

 ――そこには、千ヶ崎朝美の姿があった。

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