7
それから、二人はバスを乗り継いで自宅まで帰ってきた。
夏の太陽が沈むにはまだ時間があったとはいえ、二人が家に帰りついたのはだいぶ遅い時刻だった。朝方に出発したことを考えても、ずいぶん長い一日である。
鍵を開けてリビングまでやって来ると、二人は倒れるようにソファに座りこんだ。
「何だか、疲れた……」
声を出すのも億劫そうに、ナツは言った。
「私もだ……」
ぺたっとうつぶせになりながら、ソラも言う。
それから二人は、いつのまにか眠ってしまっていた。太陽は気を使ったように音もなく沈んで、いつしか宵闇があたりを覆っている。部屋の中にはまだ密度の粗い、できあがったばかりの暗闇がひっそりと満ちはじめていた。
二人が短い眠りから覚めたのは、部屋の明かりが点けられたときのことだった。桐子が仕事場から帰ってきたのである。
白い光が容赦なく目の奥を照らすと、二人は夢の一部をくっつけたような表情で起きあがった。何度も目をこすり、現実にピントをあわせようとする。
「あら、二人とも寝てたの」
桐子はソファのところまで来ると、ふと気づいたように言った。
「――うん」
かろうじて、という感じでナツは返事をする。
「ずいぶんお疲れみたいね。今日はどうだった?」
「いろいろ大変だった」
ナツは大まかなところを、簡潔に表現した。
「そう、楽しんできたみたいでよかったわね」
と、桐子は別に気にしたふうもなくにっこりとしている。もちろん、二人が魔法使いの男たちに追いまわされ、ようやく無事帰還した、などということは彼女に想像できるはずもない。ナツにもそのことをうまく説明できる自信はなかったし、今はそれだけの元気もなかった。
「お腹空いてるでしょ、すぐに夕飯作るから」
桐子は言って、口笛を吹きながら準備にかかっている。
それからしばらくして、三人は夕食の席についた。テーブルでは、主に遊園地のことが話題になっている。ソラは楽しそうにその時のことを話した。隣でそれを聞いていると、ナツは今日一日まるで何事もなかったかのような気がした。
食事と風呂をすませてしまうと、二人はナツの部屋に集まった。いくつか、話しあっておかなければならないことがある。
「とりあえず、僕たちはあの千ヶ崎朝美とかいう人に保護してもらえることになったわけだよな」
ナツは机の上に置いた、白い名刺を眺めながら言った。肩書きのところには魔法という文字は一つもなく、代わりに国家公務員であることを示す名称が並んでいる。
「あの二人もそれは予想しているだろうし、ひとまずは安全てわけだ」
「――そうだな」
ソラはベッドのところに座りながらうなずいている。
「でも、問題は別のところにもある」
「何だ?」
「予言だよ」
そう言って、ナツは引きだしから例の紙を取りだした。
「〝兎の穴〟はあのループ空間のことだろうし、〝角のないユニコーン〟は千ヶ崎さんのことだろう。あの人が持っているのは、あくまで玩具の銃だ」
「――うん」
「〝兎の穴〟や〝ユニコーンとライオン〟といえば、例のアリスの話だ。だからチェスのことも暗示してるのかもしれない。チェス盤は白黒……てことは色が混じったわけだ」
「――うん」
「とすると、予言はまだ続いていることになる。これから先は、どうなるんだ? こんな文章じゃ、相変わらず予想もできないし。夏休みだって、ずっと続くわけじゃない」
「――――」
ソラは今度は、返事をしなかった。
「?」
ふと見ると、ソラはいつのまにかベッドに体を倒して、小さな寝息を立てていた。ちょっと触れただけで夢の中をのぞけてしまいそうな、無防備で無用心な寝顔である。
ナツはちょっとため息をついてから、ソラをきちんと布団に寝かせてやった。そうして電気を消して、音を立てないように部屋の外へ出る。
扉を閉める瞬間、暗闇はソラの眠りを包んで、ひどく柔らかなものになっている感じがした。大切なものを保護する、緩衝材か何かみたいに。
リビングのほうに移ると、そこでは桐子がソファに座ってテレビを見ているところだった。時々、テレビの中から笑い声が聞こえて、桐子もくすくす笑っている。
「どうかしたの、ナツ?」
桐子はナツの姿に気づいて、そう声をかけた。
「ちょっとソラにベッドをとられただけだよ」
ナツは冷蔵庫からお茶を出してコップに注ぎながら、答えた。
「あら、それは災難ね。生涯の契りを交わすにはいい機会かもしれないけど」
どこまで本気なのかわからない桐子のセリフに、ナツは嫌な顔をした。
「いやね、冗談じゃない。そんな顔される筋合いはないわよ」
ナツはため息をつくように、お茶を一口飲んでいる。
「母さんの冗談は、僕にはよくわからないらしいね。たぶん地球の裏側まで行ったら、もっとよく理解できるんだろうけど」
「あら、私はナツのことを二百パーセントくらい理解してるわよ……じゃあ、ナツはどうするの。ソラちゃんの代わりに私の部屋で寝る?」
初日以降、ソラは桐子と樹の部屋で就寝していた。とはいえ、ナツはこの歳にもなって母親といっしょの部屋で眠りたくはない。
「遠慮しとく。僕はリビングで寝るよ」
「それは残念……でもこうして少年は大人になっていくんだから、耐えなくちゃならないわね。ああ、涙が出そう。母親の辛いところだわ」
「そうだね」
適当に流しながら、ナツはコップを持ってソファに座った。
しばらくして、桐子はテレビから聞こえる音声の合間に言っている。
「――でもね、子供なんて本当にあっというまに大人になっちゃうものよ。ソラちゃんだって、いつまでも今みたいじゃないんだから」
「もう十分すぎるくらい大人だよ、ソラは」
とナツはうんざりするように言った。
「そうね、その辺にいる大人よりは、ずっとしっかりしてる。でもね――」
桐子は言って、不意に真剣そうに言葉を足した。
「あの子が……というかナツもだけど、二人が本当は何をしてるのか私は知らない。何でソラちゃんが家出なんてしたのか、どうしてナツがあの子をうちに連れてきたのか。でもそれはそれで構わないと、私は思ってる。ナツのことだから、きっと大丈夫だろうってね」
「…………」
「それでも――あの子はあんなにも強く見えるし、ナツのことは信頼してるけど――危ないことがあったら、私たちを頼って欲しい。困ったことがあったら、言って欲しい。どんなことでも、できるだけの力になるから。ソラちゃんは強そうに見えるし、実際にそうだけど、それでもまだ小さい子供なの。誰かが守ってあげる必要があるくらいには――そのことを、忘れないでね?」
「ああ、わかってる」
ナツがうなずくと、桐子はそれを聞いて安心したというふうにテレビのほうに視線を戻した。
〝――お前の両親は、いい人だな〟
不意に、ナツは何故だかソラのそんな言葉を思い出していた。
時計は順調に夜半をまわり、桐子は寝室に下がっていった。リビングには布団がしかれ、ナツはそこで眠っている。
電気は消され、常夜灯の小さな明かりだけが部屋の暗闇を頼りなく照らしていた。
(……夏休みがずっと続くわけじゃない、か)
自分の部屋に通じる扉を、ナツはふと眺めていた。その向こう側にある、柔らかな暗闇と眠りのことを考えながら。せめてそれが穏やかなものであるように、ナツは神様みたいなものに対して祈ってみた。
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