7
観覧車はゆっくりと、まるで時間の流れそのものが遅くなったかのような速度で空へのぼっていく。目をつむると、重力のかすかな変化まで感じとれそうなスピードだった。
ナツとソラは向かいあわせに座って、窓の外を眺めていた。徐々に視界が開けて、世界は小さく大きくなっていった。遠くのほうに見える水平線は、二つの違う種類の青を別々にしている。
上空に近づくにつれ、窓からは強い風が吹きこんでいた。風にはかすかな湿り気があって、雨の匂いがしている。白い入道雲が、巨大な山城みたいにすぐ近くにあった。雨が降るのかもしれない。
ナツはぼんやりとそんな風景を眺めながら、時々向かい側のソラを観察した。この少女は嬉しそうに、いつもとは違う世界の景色に見入っていた。
二人の乗ったゴンドラは、空の頂上に近づきつつある。
「もしも――」
と、ナツは不意に口を開いた。何の前触れもなく、ふと風が吹いてくるように自然に。だからナツは一瞬、自分が何を言おうとしているのかわからなかった。
「……?」
ソラが、そんなナツを不思議そうに眺めている。
「――いや」
ナツは再び、窓の外に顔を向けながら言った。
「何でもない――揺れると少し怖いなって、思っただけだ」
ソラは黙ったまま、そんなナツを見ていた。が、やがてまた窓の外に視線を移している。そのあいだも観覧車は、密度の固い岩盤を掘削するみたいに、少しずつ上昇を続けていた。
もちろんその頃には、ナツは自分が何を言おうとしたのか理解している。理解して、けれどそれを訊きなおす気にはなれないでいた。
「もしも――」
と、ナツは訊こうとしたのだ。
「もしも自分が半分になってしまったら――それでも、世界を愛することはできるんだろうか?」
ナツはそう、訊こうとしたのだ。
でもそれは、意味のない質問だった。本当に何の意味もない、真空中で言葉を伝えようとするような質問だった。
やがてゴンドラは空を一周して、元の場所に戻ろうとしている。世界は以前の姿を取り戻し、重力は同じ強さで人々をとらえていた。
けれどそこには、観覧車の上で見たあの小さく大きな世界も含まれていた。世界は時々、そんなふうに少しだけ姿を変えた。目覚める前に見る夢のように、それは一瞬ではあったけれど――
※
その少し前、『ポラリスランド』には二人の男が姿を現していた。
三十過ぎくらいの男と、まだ若い青年である。遊園地には不似あいな二人組だったが、二人は特にそれを気にした様子もなく園内に足を踏みいれている。
火のついていない煙草を口にくわえた男が、もう一人のほうに訊いた。
「ここで間違いないのか?」
青年は奇妙な杖を持って目をつむっていたが、
「ええ、ここです。間違いないですね」
と、目を開けてうなずく。
「……しかし、何でこんなところにいるんだ?」
自分たちのほうこそよほどそうであるという事実を棚上げにして、男はつぶやいた。
「どうも一人じゃないみたいですよ。ずっと気になってはいたんですけど、ここまで同じような気配がいっしょにいますから」
「ふむ?」
男はちょっと顔をしかめたが、
「まあ何にせよ、これでようやく〝お姫様〟とご対面できるわけだ」
肩の荷が下りたといった感じで言うと、歩きだしている。
――遠くのほうに見える、観覧車に向かって。
※
観覧車から降りると、二人は噴水の近くにあった休憩所のようなところに座った。日除けのためのパラソルが並んで、その下にテーブルとイスが用意されている。涼しげな水音が響くほかには、人の気配はどこにもない。
ナツはすぐそこで買ったジュースを飲みながら、向こうのほうに見える観覧車を眺めていた。何となく、そこに落し物でもしてきたような気分だった。特殊な工作機械みたいな巨大なホイールは、相変わらず空をわずかに削りとって地上に移動させ続けていた。
その時、ナツは特に油断していたというわけではない。
もちろん四六時中、神経を尖らせて警戒していたとはいえない。けれどナツは、ソラが追われる身だということを忘れたわけではなかったし、常に意識の一部はそのことに当てていた。あの二人組のことも、頭のどこかにはきちんと残していたのである。
それでも――
「おやおや、こんな場所で優雅にお寛ぎとはな」
その男――雨賀秀平が声をかけてくるまで、ナツはその二人がすぐそこまでやって来ているのに気づかなかった。
(――!)
内心の驚きを押しつぶすように処理しつつ、ナツはすばやく周囲の状況を確認した。
ナツのすぐ隣の席には、雨賀がにやにやと笑いながら座っていた。けれどいつからそこにいたのか、ナツにはどうしても思い出せないでいる。
そして向かいの席に座っているソラの背後には、若い男――確か、烏堂とかいう――が立っていた。手には、奇妙な杖を持っている。ソラは身動きもとれないまま、じっとしていた。
「そう思うのなら」
と、ナツはできるだけ冷静に見えるように言った。
「邪魔しないのが、礼儀ってものじゃないですか?」
「そりゃ悪かったな」
雨賀はおどけたように、肩をすくめている。
周囲に、人はいない。ここで無理に助けを呼ぶと、この二人がどういう反応を見せるかは不明だった。あまり想像したくないことだけは確かである。
(いや、それよりどうしてこんな近くに来るまで気づかなかったんだ)
ナツは落ちついて、考えている。それがわからないと、どっちにせよ同じことの繰り返しだった。
「何で気づかなかったんだろう、って顔をしてるな」
雨賀はそんなナツの心を読んだかのように笑っている。
「〝
煙草を一本くわえているが、何故かそれには火がつけられていない。
「まあ、この手の魔法は魔法使い同士だとあまり意味がないことが多いんだがな。魔法の揺らぎそのものは隠しようがないんだから。しかしお前はほとんどその手の訓練を受けたことがないから、気づかなかったんだろう」
ナツは黙ったまま、雨賀の様子をじっとうかがっている。
「さてと――」
言いながら、雨賀は首に巻いていたわっかのようなものを外し、烏堂からも同じものを受けとった。どうやらそれが、〝潜行魔法〟の魔術具らしい。
地面に置いてあったボストンバッグにそれをしまうと、雨賀は烏堂から奇妙な杖のようなものも受けとって、同じようにバッグに放りこんだ。杖は明らかにバッグに収まりきらないだけの長さを持っていたが、何の問題もなくその中に吸いこまれている。
雨賀はそれだけのことをすませてしまうと、火のついていない煙草を指に挟んで、あらためて言った。
「ここまで説明してやったんだから、そっちのほうもいくつか質問に答えてくれるよな」
「……嫌だと言ったら?」
「まず、お前は何者だ」
雨賀はナツの発言を頭から無視して言った。
「この娘とお前には、何の関係がある? 何故、お前たちはいっしょにいるんだ?」
「……こちらからも質問していいですか?」
「やめておいたほうがいい、とだけ言っておこう」
ナツの迂遠なセリフに対して、雨賀はぴしゃりと言った。
「でしょうね」
ナツはため息をつくように、どう説明すべきか考えた。が、うまい説明など思いつきそうもない。
「――〈運命遊戯〉」
と、ナツは言った。
「ん……?」
「予言されたことらしいですよ、これは」
「……なるほどな」
思いあたる節があるらしく、雨賀は簡単にうなずいている。
「その予言が書かれたはずの紙は、今持ってるのか?」
ナツは首を振った。あの紙はソラが保管しているはずだったが、どちらにせよ手元にはない。魔法の揺らぎを検知すれば、それはこの二人にもすぐにわかるはずだった。案の定、「だろうな――」と雨賀は嘆息するように肩をすくめている。
「まったく、厄介な魔法だ。だが、まあいい。透村穹の身柄は確保したからな。予言のことはあとまわしだ」
そう言うと、雨賀は口にくわえていただけの煙草を側溝に投げ捨てた。
「悪いが、予定は変更だ。お二人にはこれから、俺たちといっしょに来てもらおう。かぼちゃの馬車は用意してないがな……まあ、もう一人はおまけみたいなものだが、万一委員会の連中に見つかりでもしたら面倒なことになる」
「…………」
「ああ、そうだ」
雨賀はことのついでだ、というふうにナツのほうを見た。
「確かまだ、名前を聞いてなかったな」
「――久良野奈津」
「そうか、ナツくんね」
言いながら、雨賀はもちろん自分のほうから名乗るつもりはないようだった。
それから雨賀が席を立ちあがると、ソラも烏堂に拘束されたまま立ちあがった。この少女に、抵抗する素振りはない。観念しているというよりそれは、もう少し違うもののような感じがした。二人はそのまま、遊園地の出口に向かって歩いていく。
ナツも仕方なく、そのあとに従った。監視しやすいように、雨賀は最後尾に連なる。どうにも、逃げられそうにない。
いつのまにか、遠くからは雷の音が聞こえて、あたりには静かな行進みたいに雨の気配が現れはじめていた。天気予報では一日中、快晴のはずではあったけれど。
「――一雨来そうだな」
烏堂有也が途中で空を見あげ、独り言のようにつぶやいた。
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