終わりに

 ソ連は開戦からの6か月間で壊滅的な敗北を被った。結果として、当初の動員兵力313万7673人の3分の2が戦死または捕虜となった。数字の上では途方もなく巨大な赤軍だったが、訓練と管理の点では不備が多かったためである。上級および中級指揮官たちの多くは臆病であり、または単に無能だった。国防の観点からすると、それは致命的な欠陥だった。

 ドイツ軍にとっては、1941年6月から7月における成功とその莫大な戦果が進撃の妨げとなった。装甲部隊は容易にソ連軍の防衛線を突破し、先鋒は最深部まで到達した。そのことが陸軍の上層部に抑えの利かない楽観論を抱かせてしまった。その結果、精鋭の装甲部隊を兵站が限界に達するまで駆り立て、ついには消耗させてしまう。この失敗の責任はヒトラー独りにだけ帰するものではない。ナポレオンの大陸軍によるロシア遠征の教訓に背いて、ヒトラーの「黒い十字軍」に協力した陸軍の指揮官たちにもある。陸軍の作戦立案者たちはヨーロッパ西部における軍事的成功のモデルをそのままヨーロッパ東部とロシアに当てはめようとしたためである。

 ドイツ軍の洗練された「電撃戦」という「剣」はソ連軍の「巨大な棍棒」が何度も繰りだす打撃によって次第に鈍磨していった。ソ連軍が繰り出す「棍棒」は次々と編成される新軍が「波」のように何度も押し寄せるという形をとっていた。新軍は兵員と政治将校の他に満足な装備は何も持っていなかったが、たとえ粉砕されてもその都度、侵略者に損害を与え続けた。そして次の「波」が押し寄せる。この動員能力がドイツ軍の進撃に「終止符」を打ったのである。壊滅的な敗北を喫したソ連が生き延びることが出来たのは、国家の莫大な人口と損害を受けながらも潜在力を発揮した赤軍にあった。

 スターリンは戦況に対して全く動ずることなく楽観的ですらあった。1942年4月にハリコフで再び攻勢を開始させるまで、勝利は我が手中にありと確信していた。スターリンがモスクワ攻防戦から誤った結論を引き出していたとすれば、ヒトラーもまた誤った結論に達していた。

 ヒトラーもスターリンと同じように1812年の再現に心を奪われた。国防軍に対していかなる場合にも退却してはならぬという命令を繰り返し発した。この冬さえ乗り切れば、ロシアの侵入者に降りかかった歴史的な因縁を断ち切ることが出来る。ヒトラーはそう確信していた。

 ヒトラーの決断がドイツ軍を絶滅から救ったと主張する者もいる。狂信的とも言える「死守命令」に対して、第4軍参謀長ブルーメントリット少将は後に「当時のモスクワ前面の状況下では間違いなく正しい決断だった」と賞した。しかしドイツ軍が持ちこたえたのはヒトラーの「死守命令」に従ったためではなく、ソ連軍が自軍の能力以上のことを成し遂げようとして失敗したためであった。敗北主義の将軍をものともしない己の強い意志が東部戦線を救った。ヒトラーはそう自負していた。

 このような双方の誤解が1年後、ヴォルガ河畔の工業都市スターリングラードを巡る一連の攻防戦でそれぞれに跳ね返ってくるのである。

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巨人たちの戦争 第3部:終焉編 伊藤 薫 @tayki

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