[2] 転換点

 1941年11月中旬の時点で、ジューコフをはじめとする赤軍の首脳部はモスクワへ肉薄する敵をいかにして迎撃するかという防御作戦の指導に忙殺されていた。そのため、戦略規模での攻勢に転じる可能性を検討する余裕をほとんど持ち合わせていなかった。

 スターリンは11月中にいくつかの場所で局地的反撃を命じ、ジューコフやロコソフスキーなどの指揮官はやむを得ず命令に従って貴重な兵力を攻撃に投入していた。しかし、その結果はいずれも失敗に終わり、前線の指揮官たちは「自軍の状況を考えると大規模な反撃は時期尚早」という認識でほぼ一致していた。

 11月19日、情勢を悲観したスターリンはペルフシコヴォに置かれた前線司令所にいるジューコフに電話をかけ、今後の対応を相談した。

「君は我々がモスクワを守りきれると本当に確信しているかね?こんなことを質問するのは、我ながら情けないと思うのだが」

 ジューコフは敵の攻勢がすでに限界に近づきつつあることを察知しており、2個軍と200両の戦車の増援があれば、モスクワは絶対に守りきれると断言した。この時点で新たな戦車の増援は望めなかったが、最も危機が迫っているモスクワ北西の突出部に第1打撃軍(クズネツォーフ中将)と第20軍(ヴラソフ中将)が投入された。

 11月26日、第2装甲軍がトゥーラをほぼ包囲しつつ、ゆっくりと北へ進撃してカシーラ付近の発電所を脅かそうとしていた。ジューコフは再び第2騎兵軍団長ベロフ少将に対し、「いかなる代価を払ってでも敗勢を回復すべし」と命令した。

「最高司令部」はムチェンスクでの成功を再現しようとした。ベロフにはきわめて貧弱な予備兵力の中から第112戦車師団の半分に加えて2個独立戦車大隊(第127・第135)、第173狙撃師団、カチューシャ・ロケット砲隊1個を与えられた。この混成部隊は「第1親衛騎兵軍団」と改称され、カシーラ付近にいた第2装甲軍の先鋒である第17装甲師団を攻撃するように命じられた。

 11月27日、第1親衛騎兵軍団は反撃に出た。ヴェネフ北方まで進出していた第17装甲師団を3日間に渡る激戦の末に前線を30キロも押し返して、トゥーラへの脅威を取り除いた。しかし前線の奥深くまで進撃したため、逆に第2装甲軍の背後で孤立してしまった。

 11月30日、中央軍集団司令官ボック元帥はモスクワに近い前線司令所に出向いた。前線の苛酷な状況を視察していたボックに陸軍総司令部から緊急連絡が入った。電話の主は陸軍参謀本部作戦課長ホイジンガー大佐だった。

「敵の包囲・殲滅は完了するのはいつ頃なのか、総統が知りたがっておられます」

 ボックはその質問には答えなかった。

「もし陸軍総司令官ブラウヒッチュ元帥がそばにいるなら代わってほしい」

 まもなくブラウヒッチュと電話が繋がり、ボックは溜まりに溜まった憤懣を受話器に向けて吐き出した。

「我々が最大限の能力を出し尽くしてこの作戦を遂行していることを、ぜひ総統に伝えていただきたい。本当に危機的な状況なのだ。私は手持ちの兵力を最善の形で運用しているが、予備はもう底を尽きかけている。

 グデーリアンの第47装甲軍団はリャザンの北でオカ河に到達しているが、敵の反撃が強力でオカ河を越えて進めるとは思えない。第7装甲師団はすでにヴォルガ=モスクワ運河の対岸にあった橋頭堡を捨てて西へ退却してしまった。我々はもう突進力を失ってしまったが、敵は新たな兵力をモスクワの南北に投入し続けている。我が軍集団の両翼は、これらの敵に脅かされているのだ。

 私もできれば、モスクワへの攻撃は続けたい。しかし、この酷寒の状況下で、部下に25年前のヴェルダン戦のような肉弾戦はやらせたくない。我が中央軍集団はもう戦力を使い果たしてしまったのだ」

「総統は、ロシアの完全な崩壊はもう間近だと確信しておられる。ボック元帥、総統は貴官がそれを実現してくれるのを待っておられるのだぞ」

「陸軍総司令部は、戦況を完全に誤認している。私は数日前から何度も、我が軍集団にはもはや攻撃続行の能力がないことを繰り返し報告してきたはずだ。すぐに予備兵力を贈ってもらえないなら、そのような任務を全うすることはできん」

「与えられた任務を全うすることが、貴官の責務ではないのか?」

 ボックは怒りを爆発させた。

「だから、状況がそれを許さないと言っているのだ!」

 この後、ボックは冬季用装備や予備兵力の不足を理由に、もはや自軍には攻撃を継続する余力が残されていないことをヒトラーに伝えるよう辛抱強く訴えたが、ブラウヒッチュの態度もボックの訴えと同じように頑迷だった。

「総統が知りたがっておられるのは、モスクワがいつ陥落するかということだ」

「あなたはここで何が起きているのか、まだ分からないのか?このまま攻撃を継続することが何を意味するのか、あなたはまだ理解できていないのか?」

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