[5] 終止符

 2月1日、思うように進まない戦況に苛立ったスターリンは以前に廃止した「西部戦域軍司令部」を復活させた。同戦域軍司令官に西部正面軍司令官ジューコフ上級大将を兼任させる。西部正面軍とカリーニン正面軍を西部戦域軍の管轄下に入れて、統一的な攻撃で中央軍集団の「冬季持久線」を壊滅させようと考えたのである。

 だが、ソ連軍の冬季反攻作戦はそもそも「戦力の集中」という原則を反する形で実行されていた。そのため1942年1月から2月に差しかかる頃には完全に「息切れ状態」に陥り、いずれの戦域においても打撃力を喪失していった。前線の各方面では弾薬の枯渇が深刻化し、砲兵はほとんど火砲を撃てない状態に陥っていた。

 西部正面軍の南翼では、ブリャンスク正面軍がオリョールの東方に位置するボルホフを防衛する第2軍に対して何か月に渡って攻撃し続けていた。しかし、北のスヒニチから第2装甲軍の第24装甲軍団(エルレンカンプ中将)が反撃を開始する。戦線の背後を脅かされたブリャンスク正面軍は攻勢を中止せざるを得なくなった。

 さらに南方でもモスクワの「最高司令部」は戦果が拡大することを見越して、2つの作戦に取りかかっていた。南西部正面軍(コステンコ中将)と南部正面軍(マリノフスキー中将)は協同してハリコフ南方で攻勢を開始した。

 1月18日、2個正面軍に所属する5個軍(第6軍・第9軍・第37軍・第38軍・第57軍)は南方軍集団の第6軍と第17軍の境界に向けて進撃を続けた。これは北ドネツ河を渡ってドニエプル河に展開する試みだった。

 南方軍集団ではソ連軍の攻勢が開始される前日に同軍集団司令官ライヘナウ元帥が心臓発作で急逝するという事態が発生していた。後任には約1か月の休養で体力が幾分回復した前中央軍集団司令官ボック元帥が着任した。

 1月27日、第6軍の先鋒が攻撃発起点から80キロ西のロゾヴァヤまで進出した。だが、ここでソ連軍の攻勢は限界に達してしまった。装甲部隊を再編した南方軍集団は同月31日までにバルヴェンコヴォ橋頭保で持ちこたえる態勢を整えた。

 モスクワ周辺のソ連軍に配属された歩兵と騎兵の耐久力にも限界が近づいていた。

 2月14日、西部戦域軍司令官ジューコフ上級大将はスターリンに対して「弾薬の不足が原因で、攻撃する赤軍兵士の損害が急激に増加しています」という報告を行った。この報告を受けてもスターリンは攻撃の停止を許可せず、冬季反攻作戦の継続を伝えた。

 2月16日、モスクワの「最高司令部」はカリーニン正面軍と西部正面軍の残存部隊に対してルジェフとヴィアジマの敵集団の撃滅を命じた。手詰まりになった戦況の打開を試みたジューコフはヴィアジマ周辺に再び第4空挺軍団を降下させるよう命じた。今度の降下範囲にはウグラ河に沿った地域が選ばれたが、その地域は以前に第250空挺連隊が突破作戦を敢行してドイツ軍を怯えさせた場所と同じ湿地帯だった。

 2月17日から18日にかけての夜、第4空挺軍団は降下を開始した。輸送機の不足と戦闘機による援護の欠如により、降下した7400人の落下傘兵のうち、7割以上が集合地点まで集結できなかった。軍団長をはじめ多くの幕僚がドイツ軍の戦闘機によって撃墜されて戦死した。残存部隊は第50軍を援護するため、ユホノフ街道沿いの高地を制圧しようした。しかし、この攻勢を何度試みても第4空挺軍団は高地を制圧できなかった。制圧に必要な車両と重火器が不足していたためである。だが、中央軍集団も第4空挺軍団をウグラ河湿地帯から排除することに失敗した。

 冬季戦は4月20日まで続いた。3月初め、ウクライナでは春の雪解けと泥濘期が到来した。2週間後、モスクワ周辺も大地が泥濘と化した。ソ連軍の前線部隊と補給線は深い泥に脚を取られて移動できなくなり、反攻はまもなく停止に追い込まれた。

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