[3] セヴァストポリ要塞の包囲

 東部戦線の最南端では、南方軍集団に所属する第11軍(マンシュタイン大将)がクリミア半島の攻略作戦を実施していた。第11軍は正面幅がわずかに7キロしかないペレコプ地峡を守る第51軍(クズネツォーフ中将)の陣地に激しい攻撃を繰り返していたが、9月末に南部正面軍の反撃を受けてその勢いを削らされていた。

 10月18日午前5時40分、第11軍はペレコプ地峡の南部に位置するイシュニ地峡から第2次攻撃を開始した。攻撃の主力は第54軍団(ハンゼン大将)だが、敵の戦線に綻びが生じた時に予備兵力の第30軍団(ザルムート大将)を投入する計画になっていた。

 第51軍は正面幅がペレコプ地峡よりも若干広い12~15キロのイシュニ地峡とその東のチョンガル半島に面した鉄道橋に、第9狙撃軍団(バトフ中将)を配置していた。

 大陸とクリミア半島をつなぐ「天然の陸橋」であるイシュニ地峡を奪取しようと第54軍団はペレコプ地峡における攻勢と同様、正面から肉弾突撃に身をさらした。進撃は微々たるもので損害は大きかったが、火砲やネーベルヴェルファーを集中させ、第51戦闘航空団の支援もあって着々と地歩を築いていった。

 10月21日、マンシュタインは第30軍団を前線に投入した。麾下部隊からは戦闘力低下に関する報告を受けていたにも関わらず、マンシュタインは攻撃継続を決断した。砲煙と土埃が舞う中、第11軍はついに防衛線の西端で突破口を抉じ開け、第51軍を南に後退させることに成功した。

 10月26日、第11軍はクリミア半島北部を流れるシェルタリク河に到達した。

 10月28日、マンシュタインはペレコプ北東30キロの位置にある第11軍司令部で今後の作戦に関する戦略会議を開いた。ソ連軍に戦力を回復させる時間を与えずに半島に突入して戦果を拡大する必要があったが、決定的な手段を欠いていた。そこで第22歩兵師団の捜索大隊、増強されたルーマニア第3軍の自動車化連隊、その他に雑多な自動車化部隊から成る自動車化戦隊(ほぼ旅団規模)を編成した。マンシュタインは戦隊長にハインツ・ツィーグラー大佐を任命し、南のアルマ河に向けて突進するよう命じた。

 11月2日、第54軍団の先鋒に投入されたツィーグラー戦隊はクリミア半島の首都であるシンフェロポリの占領に成功した。さらに進撃を続け、セヴァストポリ要塞の外縁から23キロ地点のバフチサライに到達した。

 マンシュタインは細心の注意を払って作成した状況判断を南方軍集団司令部に送付し、その中で自らの攻勢案を詳述した。第11軍はケルチ半島に退却中の第51軍を追撃することで、ソ連軍を山岳地帯からおびき出し、セヴァストポリ要塞から引き離すことを企図していた。南方軍集団司令部はこの攻勢案を承認した。

 同じ頃、ソ連軍はある程度の秩序を保って退却していたが、クリミア半島の防衛における指揮系統は混乱していた。オデッサから撤退した独立沿海軍はセヴァストポリの北40キロに位置する小さな集落で作戦会議を開いた。同軍司令官ペトロフ少将は麾下部隊の指揮官らと協議して、しかる後に沿海軍はセヴァストポリに撤退すると決断を下した。

 11月9日、最初の雪がクリミア半島に降り始めた。その後は「泥濘期」が訪れ、ドイツ軍が使用する未舗装の道路を全てぬかるんだ難路に変えてしまった。マンシュタインにセヴァストポリ攻撃を迅速に実行する機会は消え失せたのである。独立沿海軍はこの間にトーチカや地雷、野砲陣地などで要塞を補強した。

 11月14日、第54軍団はセヴァストポリ要塞の包囲を完了した。第30軍団は半島南部に大きく横たわるヤイラ山脈を越えて黒海沿岸の保養地ヤルタを制圧した。増援に投入された第42軍団(シュポネック中将)は東に敗走する第51軍の残存部隊を追撃し、同月16日までにケルチ半島からソ連軍を一掃した。

 ケルチ半島の陥落と第51軍がケルチ半島を挟んで東からクリミア隣接するタマーニ半島に撤退したことにより、クリミアに残るソ連軍の拠点は独立沿海軍が立てこもるセヴァストポリ要塞のみとなってしまった。

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