[4] ドネツ地方の制圧

 南部戦域では、南方軍集団(ルントシュテット元帥)の第1装甲軍と第17軍によるドネツ地方の制圧が進められていた。この攻勢にはハンガリー軍とスロヴァキア軍に加えて、重要な枢軸国であるイタリア軍も参加していた。イタリア軍の第35軍団(ジンガレス中将)は1941年7月に「イタリア軍ロシア遠征軍団(CSIR)」と改名され、8月から南方軍集団の指揮下に入っていた。

 第1装甲軍の第14装甲軍団は9月末にキエフ包囲戦の任務を終え、南方軍集団司令部から下された「訓令第9号」に従い、カフカスへの玄関口であるロストフ・ナ・ドヌー(ロストフ)を目標とする攻勢作戦を開始した。

 9月26日、第14装甲軍団はドニエプロペトロフスクの北東約20キロに位置するノヴォモスコフスクからドニエプル河を渡った。

 9月29日、第14装甲軍団はドニエプロペトロフスクの橋頭堡から北に転じた第3装甲軍団と協同して、南部正面軍の第12軍(ガラーニン少将)を包囲した。

 10月4日、第3装甲軍団の第14装甲師団はアゾフ海に向けて南進を開始した。ノガイ草原で第11軍に対する反撃を実施していた南部正面軍の背後を切断し、第11軍と協同して包囲・殲滅することに成功した。6万5000人の捕虜を西方へ送り、戦車212両と火砲672門を破壊または鹵獲した。

 10月6日、この失策を重く見たモスクワの「最高司令部」は南部正面軍司令官リャブイシェフ中将を罷免した。後任の南部正面軍司令官にはチェレヴィチェンコ大将が任命された。しかし司令官の首を挿げ替えたところで、再び防衛線に大穴が穿たれた南部正面軍に第1装甲軍の進撃を塞ぐ手立ては何も残されていなかった。

 10月11日、第17軍の第4軍団がハリコフ南方のロゾヴァヤを占領した。第49山岳軍団とイタリア軍ロシア遠征軍団(メッセ中将)に支援された第14装甲軍団がドネツ工業地帯の中心都市スターリノを占領した。

 10月14日、第1装甲軍の先鋒を担う第3装甲軍団はタガンログを占領した。タガンログは要衝ロストフまで約70キロの地点にあった。

 10月20日、南方軍集団司令部は「訓令第10号」を発令した。この訓令において、南方軍集団司令官ルントシュテット元帥は部隊の進出予定線をスターリングラードに近い位置まで東へ湾曲して流れるドン河西岸に設定した。これは「バルバロッサ」作戦の基本計画に表れていた「アストラハン=アルハンゲリスク」ラインを意識したものだった。

 キエフ包囲戦の処理を終えた第6軍も、10月上旬から前線に追随していた。

 10月25日、第6軍の第17軍団は第38軍(ツィガノフ少将)が防衛する工業都市ハリコフを占領することに成功した。しかし、ハリコフにおいてもスターリンの「焦土作戦」による破壊措置が取られた。同市に進駐した第17軍団の第68歩兵師団長ブラウン少将はNKVDの破壊工作員が市内に仕掛けた爆弾によって爆死した。

 南方軍集団はクルスクからアゾフ海に至る約550キロの戦線を平押しで東へと突進した。第1装甲軍は同月28日までに、ミウス河に到達した。だが、麾下の部隊では物資や弾薬の補給が急速に悪化し始めていた。さらにロシアの町を結ぶ未舗装の道路が深い泥濘へと変貌する「泥濘期」が到来し、軍集団の兵站にさらなる負担を強いられてしまう。

 11月4日、南方軍集団司令官ルントシュテット元帥は麾下の部隊に対して攻撃を停止するよう命じざるを得なくなった。

 南西戦域司令官ティモシェンコ元帥と評議員フルシチョフは「泥濘期」に救われた形で防衛態勢の立て直しに必要な時間を稼ぐことが出来た。南部正面軍はロストフの防衛に、カフカスからの援軍や再編された軍をぞくぞくと配置していた。

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