[2] ドイツ軍の参加兵力

 1941年10月初頭の「台風」作戦開始時における、中央軍集団の参加兵力は192万9406人に上った。その中には親独派のフランス人義勇兵から構成された部隊が編入されていた。東部戦線における国防軍の総兵力の内、兵員の42%、戦車の75%、火砲の33%がモスクワ前面に投入された。

 攻勢の中核を担う装甲師団の1個当たりの前線は約3キロで、その保有戦車台数は1217両だった。3個装甲集団の内、北方軍集団から転用された第4装甲集団は開戦時の戦車台数をほぼ維持していたが、第3装甲集団は開戦時の4分の3程度に減少し、キエフ包囲戦を終えたばかりの第2装甲集団は開戦時の約半分にまで減少していた。

 また、装甲集団は開戦時から同一軍集団に所属する「軍」に補給を依存していたが、より独立した形での機動作戦を効果的に行わせるために組織変更が行われた。固有の補給組織を編入された装甲集団は「装甲軍」へと格上げされ、第1装甲集団・第2装甲集団・第4装甲集団は10月5日に、司令官の交代が重なった第3装甲集団は10月8日にそれぞれ「装甲軍」と改称された。

 中央軍集団が保有する火砲の合計は約4000門で、そのうち約2300門は105ミリ榴弾砲、約1000門は150ミリ榴弾砲、184門は210ミリ榴弾砲、270門は多連装ロケット発射機「ネーベルヴェルファー」だった。

 地上軍を空から支援する第2航空艦隊の戦力は稼動機数が約550機で、そのうち190機が戦闘機、230機が水平爆撃機、120機が急降下爆撃機と地上攻撃機だった。

 中央軍集団に所属する部隊の内、キエフ包囲戦に参加した第2装甲集団と第2軍、および北方軍集団の支援に回された第3装甲集団の一部を除いた約半数は、スモレンスク攻防戦が終結した8月初頭から9月末までの約2か月間、比較的「平穏な」前線でソ連軍と対峙していた。

 中央軍集団司令部は燃料や弾薬の消費が減少したこの期間を利用して、モスクワ攻勢に備えた物資の集積に全力を注いだ。ネヴェリ、スモレンスク、ロスラヴリ、ゴメリの四都市で補給物資の集積が行われていたが、輸送トラックと荷馬車の不足やソ連軍の残存兵にパルチザンの妨害などが原因となって、前線に集結する部隊に補給物資を送り届けることが出来ていなかった。

 中央軍集団司令部は所属する70個師団への補給物資として1日当たり1万3000トンを必要としていたが、「台風」作戦の開始直前になってもこの3分の2程度の輸送力しか用意できなかった。前線が補給集積所から遠ざかるにつれて、この数字は3分の1程度にまで減少していた。

 開戦からほとんど休みなく戦い続けた中央軍集団の将兵たちは9月末、ようやく新たな大攻勢を目前に短い休息を取っていた。開戦してから3か月あまりが過ぎていたが、ソ連軍は一向に倒れる気配を見せず、彼らは得体の知れない怪物を相手にしているような「恐れ」を抱いていた。

 また、「台風」作戦に参加する第4軍司令官クルーゲ元帥は違った意味の「恐れ」を抱いていた。それはロシアの冬に対する「恐れ」であった。天候が悪化すれば、モスクワへ向けた攻勢作戦は停止を余儀なくされる。クルーゲはそもそもモスクワ攻勢の実施に対して異議を唱えていた。

 10月3日、ヒトラーはベルリンのスポーツ宮殿で演説した。歓呼に応える支持者たちに東方制圧はついに最終段階を迎え、モスクワへの総攻撃は「世界史上最も大規模な戦闘」になるであろうと述べた。ソ連という竜が退治されたならば、それは「二度と立ち上がることはないであろう」と続けた。ヒトラーの演説に後押しされたボックは「モスクワを占領すれば、年内に対ソ戦は終結する」という考えをクルーゲに示した。ハルダーもボックの意見に賛同を示した。

 中央軍集団の将兵たちは「年内までには戦争は終わる」というボックの言葉に期待を抱いて、「赤い首都」モスクワ攻略に向けた準備を着々と進めていたのである。

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