[2] 戦時下のモスクワ

 秋が深まるにつれて、モスクワ市民は厳しい寒さを身にしみて感じるようになった。それは電力の不足や石炭の供給不足で暖房が使用できないといった物理的な要因だけではなく、ドイツ軍が首都に迫って来ているという精神的な圧力も関係していた。

 10月8日、スターリンは国家防衛委員会に対し、モスクワ市および州で「焦土作戦」の準備を行うよう命令を下した。NKVD次官セーロフが作成した破壊すべき建物のリストには、駅その他の鉄道施設、発電所、橋脚、タス通信本社ビル、電話交換局が含まれていた。クレムリンの守備隊には構内を爆破するための爆薬が支給され、NKVDも管轄下のオフィスを破壊する手筈を整えていた。

 一般の民衆には、こうした事態に関する説明は一切なかった。負傷兵や看護師、記者たちが前線からモスクワに戻ってきては、それぞれが見てきた状況を語った。この時期になると、モスクワでも遠雷のような砲声が聞こえるようになり、流言が事実にとってかわられた。ある市民の日誌には次のように書かれていた。

「破局が迫りつつあるという無常観、際限のない流言が広まっている。オリョールが陥落し、ドイツ軍はマロヤロスラヴェツを攻略。今日の気分はとりわけ憂うつである」

 10月15日、ドイツ第4軍はモスクワ南方約160キロに位置する古都カルーガを占領し、カルーガの陥落はクレムリンに伝えられた。迫り来る途方もない脅威を身近に感じたスターリンは、急きょクレムリンの執務室に共産党政治局のメンバーを召集して会議を開いた。出席者の顔がそろうと、スターリンは平静に状況を説明し始めた。

「ドイツ軍がいつ何時、突破攻撃してくるかも分からないので、必要な準備は整えておかねばならぬ」

 短い討議の後、スターリンは決定を口述させた。この日の内に共産党政治局、政府、外交団の大部分をモスクワ東方のヴォルガ河岸クイビシェフ(サマラ)に疎開させ、モロトフが副首相として随行する。国防人民委員部(国防省)と海軍人民委員部(海軍省)はクイビシェフに移転させるが、赤軍参謀本部はヴォルガ河岸ニジニ・ノヴゴロドのアルザマスに移転させる。スターリン自身がモスクワを離れるかどうかは言及されなかった。

 そして、モスクワ軍管区司令官アルテミエフ中将は最後の抗戦の準備を整える。敵がモスクワに到達した場合、NKVD長官ベリヤとモスクワ市共産党議長シチェルバコフがリストアップされた施設の破壊に責任を負うとされた。党が必要としない文書は完全に焼却するよう厳命され、党文書館ビルに隣接する公衆浴場のボイラー室から黒い煙が上がった。

 10月16日の朝は、低くたれこめた雲から時おりみぞれまじりの雨が降っていた。街頭に出た市民は市内の状況が一変していることに気付いた。新聞が配布されず、多くの郵便配達員が解雇されていた。バスや市電は運休し、地下鉄は運行本数を減らしていた。出勤した人々は、工場の門が閉鎖されていたことに気付いた。

 コスイギンが共産党人民委員会の建物に入ってみると、全てが放置されていた。書類は散乱し、ドアの開いた無人のオフィスには電話の音だけが鳴り響いていた。コスイギンは部屋を駆けずり回って、電話に出た。だが、間に合って受話器を取っても、相手は無言のままだった。正体を明らかにした1人は、無愛想にこう尋ねた。

「モスクワは降伏するのか?」

 政府による公式報道は皆無だったが、一般の市民はさまざまなルートから状況をかなりよく把握していた。省庁の疎開のニュースと度重なるドイツ空軍の空襲、それにヴィアジマとブリャンスクでの敗戦を受けて、モスクワ市民の間でデマや噂が広まった。クレムリンの政変でスターリンが逮捕されたとか、ドイツ軍の落下傘部隊が降りてきて、赤軍の軍服を着たドイツ軍兵士が市内に潜伏しているといった噂が飛び交った。

 10月十六日から十八日にかけて、モスクワは恐慌状態に陥った。街では店が襲われ、缶詰めを積んだトラックが略奪され、火が放たれた。家の壁からスターリンの肖像画が外され、党員証が平気で焼かれた。朝になると、急造されたガリ版のビラが街にばらまかれた。その文面はひどく扇情的で、政府をこき下ろしたものだった。あるジャーナリストの日誌には、この日のモスクワの様子が詳細に描かれている。

「誰が工場の閉鎖を命じ、労働者の解雇を命令したのか?この大混乱、集団逃走、略奪、人々の心の中の困惑を招いた黒幕は誰なのか?人々は怒りに燃え、大声で喋っている。おれたちは騙された。船長らが真っ先に船を見捨て、しかも貴重品を持ち逃げしたと。3日前だったら、軍法会議に掛けられそうなことを、みんなが大声で話している。トップのヒステリーが大衆に伝染した。人々はあらゆる屈辱、抑圧、不正、官僚たちの傲慢な態度、当の欺瞞と自惚れ、大衆に対するごまかし、新聞の大嘘や提灯記事を思い起こし、数え上げるようになってきている。こんな雰囲気に支配されている都市の防衛が、はたして可能だろうか?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る