[3] 不穏な空気

 クレムリンは当初、直面する脅威の大きさを認めようとはしなかった。「最高司令部」は通信の混乱により前線の状況を把握できず、10月5日になってもまだ「西部正面軍とブリャンスク正面軍は、敵と激しく交戦中」という程度の情報しか掴んでいなかった。

 10月5日、モスクワへの接近路を偵察した哨戒機が次のような報告を上げた。

「ドイツ軍の装甲部隊が長さ25キロも縦列をなし、モスクワから200キロと離れていないユフノフへの道路を急進している」

 2機目の偵察機も飛ばされ、先のパイロットの報告が正しいことを確認した。

 この報告を受けたNKVD長官ベリヤは激昂した。次官のアバクーモフをモスクワ軍管区空軍司令官スヴィトフ大佐のもとへ送り、スヴィトフとパイロットを「臆病者で混乱を煽った」罪で逮捕することも可能だと脅した。

 しかし、スターリンはブリャンスクとヴィアジマにおけるドイツ軍の攻撃がモスクワを目標とする大攻勢である可能性を危惧していた。10月5日にレニングラード正面軍司令官ジューコフ上級大将を電話で呼び出し、モスクワへ戻るよう命じた。

 10月7日、中央軍集団司令部を訪れた陸軍総司令官ブラウヒッチュ元帥は今後の作戦方針について中央軍集団司令官ボック元帥および麾下の各軍司令官と協議した。

 協議の結果、次の点が決定された。第2装甲軍はトゥーラの攻略を目指す。第2軍はブリャンスク周辺の残敵を掃討する。新たに2個軍団(第12・第13)の増援を受けた第4軍は第4装甲軍と協力し、カルーガおよびモジャイスクを占領する。第9軍は第3装甲軍と協力し、カリーニンおよびルジェフを占領する。

 また、ヒトラーはボックに対し、もしクレムリンがモスクワの降伏を申し出てもこれを受諾しないよう言い渡した。10月12日に陸軍総司令部の命令文書として規定されたこの制限によって、ヒトラーは次の点を厳命した。

「ドイツ軍部隊は決してモスクワおよびレニングラード市街地に足を踏み入れてはならず、砲撃と爆撃で完全に抹殺する」

 モスクワ市民が初めて戦争を肌身で感じるようになったのは、開戦からちょうど1か月が経過した1941年7月22日のことだった。この時、中央軍集団はモスクワから約400キロ西方のドニエプル河東岸に到達していた。モスクワはドイツ空軍が保有する爆撃機の航続距離内に入ったのである。

 ヒトラーは7月13日の会議で「モスクワへの心理的効果を狙った爆撃」を行う可能性について、陸軍参謀総長ハルダー上級大将に示唆した。その後、同月19日に署名した「総統指令第33号」において、ヒトラーは第2航空艦隊司令官ケッセルリンク元帥に次のような任務を与えた。

「ソ連空軍機によるブカレストおよびヘルシンキへの空襲に対する報復として、第2航空艦隊は可能な限り速やかに、西部戦線から爆撃機を転用して戦力を増強し、モスクワへの爆撃を敢行せよ」

 当時のモスクワは1930年代に大規模な整備計画が打ち出されていたが、居住用建物の7割が木造だった。工場建屋の屋根は燃えやすいゴム引きやタール引きのルーフィング材で覆われており、まさに「火薬庫」だった。

 モスクワに対する最初の長距離爆撃行は随伴可能な航続力を持つ支援戦闘機がなかったために夜間に実施された。

 7月21日から22日の夜にかけて、第2航空艦隊の爆撃航空団がモスクワ上空に侵入した。計127機のユンカース88やハインケル111が104トンの高性能爆弾と焼夷弾4万6000個を投下した。

 この空襲によりベロルシア駅、日本大使館、モスクワ動物園、イギリス大使館をはじめ166件の火災が発生した。37棟の建物が破壊され、クレムリン周辺に4発の高性能爆弾が落下した。そのうち1発がクレムリン宮殿の屋根を貫通し、聖ゲオルギー広間に大穴を開けたが、幸いにも不発だった。死者130人、負傷者662人を数えた。

 第2航空艦隊はこの後も8月17日までの間に、モスクワに対する空襲を計17回実施した。爆撃機は主として地上軍の戦略的支援に回されていたため、1回の空襲に出撃できる機数は少なかった。モスクワが受けた被害は小さかったが、立て続けの空襲にモスクワ市民は神経をすり減らしていた。

 モスクワ市民に対する精神的な重圧はドイツ軍がモスクワに近づくにつれ、ますます深まっていくことになる。

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