[2] ヴィアジマ包囲戦

 10月2日午前5時30分、前線に沿った中央軍集団は短い準備砲撃を行い、高密度の煙幕を展張した。続いて、第2航空艦隊の爆撃が戦場一帯に降り注いだ。投下された爆弾の1発が西部正面軍の司令部に直撃し、司令部は一時的に機能マヒに陥った。

 第4装甲集団(ヘープナー上級大将)は第33軍と第50軍の境界面に沿って進撃を開始した。第3装甲集団(ラインハルト大将)はヴェルディノの北で第19軍と第30軍の境界を突破し、第41装甲軍団(モーデル大将)をルジェフ、第57装甲軍団(シャール大将)をヴィアジマに進撃させた。

 ソ連軍は大部分の場所で陣地を維持していたが、モスクワの「最高司令部」は中央軍集団の突破が伝えられると、遅まきながら退却を許可した。だが、予備正面軍司令部も西部正面軍司令部も麾下の各軍司令部と連絡が取れず、状況をまったく把握できなかった。

 10月3日から4日かけて、コーネフは応急的に編成した機動集団に第3装甲集団に反撃するよう命じた。すでに開始された西部正面軍の退却を援護させようとした。

 10月5日、第4装甲軍の第40装甲軍団(シュトゥンメ大将)はモスクワから約200キロに位置するユフノフを占領した。第40装甲軍団の第10装甲師団は進路を北に変え、モスクワ街道のヴィアジマに迫ろうとしていた。

 10月7日、第3装甲軍の第57装甲軍団は西部正面軍の反撃を撃退してヴィアジマに進出した。第57装甲軍団の先鋒を務める第7装甲師団は翌8日、第4装甲軍と合流した。

 縦深を欠いた部隊配置で中央軍集団の攻勢を迎え撃った西部正面軍の各軍は瞬く間に正面軍司令部との連絡を断ち切られて混乱状態に陥った。そしてドイツ軍が合流を果たしたことにより、第16軍・第19軍・第20軍・第32軍がヤルツェヴォとヴィアジマの中間部で包囲されてしまった。包囲された各軍の指揮は、第19軍司令官ルーキン中将が執ることになった。

 第4軍(クルーゲ元帥)と第9軍(シュトラウス上級大将)の歩兵部隊は西部正面軍が後退阻止部隊によって依然として戦意を失わず頑強に抵抗を続けたため、ヴィアジマ包囲網を完全に閉じることに苦戦していた。

 その抵抗の中で、第16軍司令官ロコソフスキー少将は途中でかき集めた敗残兵を引き連れて、東方へ脱出することに成功した。脱出の際、ロコソフスキーは食事を摂るために農家に立ち寄った。その家に住む老人から叱責を受け、ロコソフスキーは殴られたような思いを抱いた。

「同志指揮官、おたくらは何をやっているのかね?わしらを見捨てて敵の手に渡すかね?わしらは赤軍のために出来ることはなんでもやってきた。最後のシャツ一枚まで脱いで、くれてやったものだ。わしらは昔の兵隊でドイツ軍と戦ったこともあるが、敵にはロシアの大地は一歩も踏ませなかった。今のこのザマを、おたくらはどう思っているのかね?」

 10月12日から13日の夜にかけて、包囲された部隊から少なくとも2個狙撃師団がドイツ軍戦車の行動できない湿地帯を通って東方に脱出した。その後、さらに多くの部隊が小さなグループを組んで包囲網から脱出に成功した。包囲を免れた西部正面軍と予備正面軍の残存部隊はカリーニンからモジャイスクを経由してカルーガに至る第二防衛線まで後退し、その一部はパルチザンに合流した。

 10月18日、ヴィアジマとブリャンスクの包囲環で抵抗を続けていた西部正面軍と予備正面軍の4個軍(第16軍・第19軍・第20軍・第32軍)は主要な抵抗をついに停止した。国防軍総司令部は翌19日、ヴィアジマとブリャンスクにおける包囲戦で国防軍が赤軍の8個軍、73個師団を撃滅したと発表した。

 10月の第1週だけで、ソ連軍の3個正面軍(西部・予備・ブリャンスク)は兵員の5割から8割(約68万8000人)と戦車の9割(830両)、火砲の8割(6000門)を包囲され、モスクワ街道は実質上「がら空き」の状態になってしまった。連綿と続く前線は存在せず、ソ連軍の抵抗拠点にぶつかると、中央軍集団はそれらの拠点を迂回して「赤い首都」モスクワへの進撃を続けていった。

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