[3] 雪中の落下傘

「ルジェフ=ヴィアジマ」作戦では、地形が重要な意味を持っていた。この一帯に舗装された道路がわずかに2本しかなかったからである。1本はスモレンスクからヴィアジマを経由してモスクワまで走る。もう1本は南西に対角線上にモスクワからマロヤロスラヴェツを経由して、ユホノフへと走っていた。この2本の舗装道路を巡って独ソ両軍の戦闘が荒れ狂った。

 1月18日、第5軍(ゴーヴォロフ中将)はモジャイスクとメドィンを奪回した。

 1月20日、ヴィアジマ南方約40キロに位置するジェラニエの周辺では、第250狙撃連隊と第201空挺旅団の2個大隊(第1・第2)がパラシュートでウグラ河湾曲部の湿地帯に降下した。

 1月27日、第1親衛騎兵軍団はユホノフの南西35キロの地点でワルシャワ街道を遮断することに成功した。ジューコフはこれらの突破を弾みにして、ヴィアジマ奪回というより重要な空挺作戦を計画した。1万人から成る第4空挺軍団を夜間にヴィアジマの西方に降下させるという内容だった。

 この日から2月1日にかけて、第4空挺軍団の第8空挺旅団(オヌフリエフ中佐)が散り散りになってヴィアジマの南西に降下した。だが、この空挺作戦ではソ連軍の兵站がいかに脆弱であるかが露呈した。輸送機が不足していたため、空挺部隊の下降には何日も要した。精鋭の落下傘兵のうち、冬季用の白い迷彩服を支給された者はわずかだった。しかも空挺部隊がカルーガの飛行場付近に現れたことで、ただちに空挺作戦が行われることを敵に示してしまった。

 降下した兵士の多くは悪天候と粗末な航法が原因で装備や補給品、通信機を雪原で喪失してしまった。旅団に所属する2100人のうち、旅団長の下に集合できた兵員は1300人だけだった。その結果はせいぜいドイツ軍に動揺を与えた程度で、第4空挺軍団の2個旅団は降下する前に作戦を中止された。

 1月30日、第1親衛騎兵軍団はジェラニエに降下した空挺部隊と合流した。第1親衛騎兵軍団は空挺部隊と協同して、即席の機動集団を形成した。

 2月2日、第1親衛騎兵軍団と第33軍の3個狙撃師団(第113・第338・第160)が第4軍の前線を突破してヴィアジマの南に進撃した。

 戦況はますます混沌としてきた。スターリンの総攻撃が一連の闇雲な攻撃に過ぎなくなるにつれ、前線は地図上であらゆる方向に弧を描いた。スターリンは劣勢から立ち直る中央軍集団の能力を過小評価していた。現場のドイツ軍指揮官たちはしばしば支援部隊の兵員までも駆り出して、寄せ集めの部隊を編成した。そして何であれ手に入る武器、特に高射砲で防御を固めた。

 その一方で苛酷な戦況下に置かれたドイツ軍では、心身をすり減らして自殺する兵士の数はますます増えた。軍司令官も例外ではなかった。心身を消耗した第4軍司令官キュブラー大将は1月20日に退任を認められた。後任の同軍司令官に第43軍団長ハインリキ大将が着任した。第4軍の新司令官に着任したハインリキはある方策を打ち出した。それは即座に積極的な反撃を行い、西部正面軍が突破した戦線を塞ぐことで後方の補給線を断ち切るという内容だった。

 2月3日、第4軍は反撃を開始した。第1親衛騎兵軍団と第8空挺旅団の攻撃は何度も撃退され、各部隊は次第に攻撃を維持する能力を失っていった。ヴィアジマとその周辺の道路は2個装甲師団(第5・第11)の残存部隊によって維持された。戦車や火砲を持たない騎兵や空挺部隊ではドイツ軍の装甲部隊を駆逐することは出来なかった。第33軍(エフレモフ少将)はヴィアジマ郊外にまで達したが、第4軍の反撃によって師団の半数が分断されてしまった。

 この時期になってようやく、ジューコフら指揮官たちの不安が的中する。第1親衛騎兵軍団と第4空挺軍団の失敗はソ連軍の冬季攻勢全体に潜む問題を示していた。ソ連軍には中央軍集団を殲滅する作戦を実行するために必要な戦力も技量どちらも不足していた。この事実はルジェフを巡る攻防戦においても顕著に表れた。

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