[2] 綱渡りの進撃

 12月5日の攻勢開始から1週間、クレムリンは自軍の意図を秘匿するためもあり、具体的な攻勢作戦の内容については最低限の報道しか行わない方針を貫いていた。

 12月13日、クレムリンはモスクワ前面での大反攻が確実な戦果を挙げつつあると確認した。そのため情報当局はようやく政府系新聞「イズヴェスチヤ」をはじめとするマスコミ各社に対して、ドイツ軍のモスクワ攻勢が頓挫して赤軍の反撃により敵が退却に転じたとの情報を大々的に発表した。

 12月15日、スターリンはもはやモスクワ前面の危機は回避されたと判断し、クイビシェフに疎開していた政府機関をモスクワに戻すよう命令した。そして「最高司令部」に対して、オリョールとブリャンスクに向ける攻勢のために新たな正面軍を創設させるよう命じた。

 12月18日、「最高司令部」はスターリンの意向に基づき、南西部正面軍の北翼に展開する2個軍(第3軍・第13軍)を分割し、戦略予備の第61軍と統括させて「ブリャンスク正面軍」を設立した。同正面軍司令官にチェレヴィチェンコ大将が任命した。

 順調に巻き返しつつあるかに見えたソ連軍の冬季総反攻であったが、その内情はこの反攻を開始する時点で、すでに大きな問題を抱えていたのである。それは敵陣への突破で主役となる強力な火力と頑強な装甲を備えた戦車の不足であった。

 10月28日の時点で西部正面軍が保有していた戦車の総数441両(修理中の車両も含む)のうち、ドイツ軍の戦車に対して有力なT34とKVは208両(全体の47%)だったが、11月16日には894両のうち193両(全体の22%)にまで低下していた。

 ソ連の軍需産業は、1941年後半に戦車6500両、火砲1万6000門、戦闘機1万2000機を生産していた。しかし、工場の疎開に伴う一時的な生産低下などの理由により、戦車の補充は時間と生産コストが低い軽戦車が大半を占める状態が続き、ソ連軍の戦車部隊は対戦車能力がきわめて低い状態に置かれ続けていた。

 そして、慢性的な戦車不足を補うため、いまだ試作段階にある未完成の戦車や、完全に時代遅れと化した旧式戦車などを、最低限の訓練を施して慌しく戦車部隊に配属されていたのである。実際、冬季総反攻に投入された西部正面軍の戦車624両のうち、全体の70%に当たる439両は非力なT26だったのである。

 さらに攻勢作戦に必要不可欠な各種の爆薬も、12月初旬の段階では、小規模な任務で消費される程度にしか備蓄されていなかった。

 弾薬の生産量は、工場の軍需転換の遅れや疎開に伴う生産低下などにより、8月をピークに9月から減少していた。ソ連軍の前線部隊は冬季総反攻の時期を迎えてもなお、深刻な弾薬不足に悩まされて続けていた。

 また、ソ連軍の進撃はきわめて貧弱な兵站に支えられており、いわば「綱渡り」のような進撃を続けていた。これまで西方からの退却を続けてきたソ連軍は敵に奪われる恐れのある補給物資の集積所を設置することをやめ、鉄道で運ばれてきた補給物資を、線路上の貨車から直接、各部隊が保有するトラックや荷馬車に分配する方式に切り替えていた。

 ところが西部正面軍が冬季総反攻で使用できたトラックの台数はわずかに8000台ほどで、前線で戦う部隊の補給状況は、戦線が西方へ進むにつれて次第に悪化していった。トラックの不足を補うために大量の馬橇が投入されたが、それでも需要を満たすにはほど遠い状況だった。

 このような事情から、1941年度の冬季総反攻における突破作戦では、弾薬と燃料の補給が不可欠でなおかつ数の少ない戦車ではなく、機動力に優れ補給の負担の軽い騎兵とスキー部隊が、重要な役割を担うこととなった。しかし、機動力はあるものの火力で劣るこれらの部隊は、敵の戦線が崩れた場所では迅速に前進できたが、ドイツ軍が拠点を築いた地域では容易にその進撃を食い止められることとなった。

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