第20章:波紋

[1] 死守命令

 ソ連軍の冬季大反攻は当初の10日間、兵力的な優勢をまったく確保できていなかったにも関わらず、「赤い首都」モスクワの前面において目ざましい成果を上げていた。

 12月8日、第10軍はトゥーラ東方のミハイロフを奪回した。

 12月11日、第16軍は第4装甲軍の戦区に当たるイストラを奪回した。

 12月15日、第1打撃軍と第30軍の進撃を食い止める障壁の役割を果たしていたクリンも解放され、第3装甲軍はクリンを放棄して西方へ脱出した。

 12月16日、モスクワとレニングラードを結ぶ鉄道とヴォルガ河が交差する北部の要衝カリーニンも第29軍・第31軍によって奪回され、カリーニンを護っていた第9軍はヴォルゴ湖からルジェフを経由してモスクワ街道沿いにグジャツクに至る線まで後退した。

 ソ連軍の冬季総反攻によって、それまでにも高まりつつあったドイツ陸軍首脳部内での危機感が一気に加速され、ヒトラーの職業軍人に対する不信感が露わになった。彼はこの不信感を11月29日に起きた、SS自動車化歩兵旅団「LAH」のロストフ撤退の時からすでに抱いていた。

 12月14日、第2装甲軍司令官グデーリアン上級大将はロスラヴリで陸軍総司令官ブラウヒッチュ元帥と面会した。グデーリアンが第2装甲軍と第2軍の前線をオリョール東方からクルスク付近に至る線まで後退させるという提案を示すと、ブラウヒッチュからは口頭で撤退の許可を得た。しかし、それよりも前方での戦線の保持が可能だと考えていた第4軍司令官クルーゲ元帥はグデーリアンの提案を厳しく批判した。またしても両者の間で激しい感情的な対立が引き起こされた。

 この感情的な対立の背景には、「総統指令第39号」に示された「防御に適した前線」を主体的に決められないブラウヒッチュの「リーダーシップの欠如」があった。最近の軍事作戦上の問題について成否を正しく判断できる知識もなく、ヒトラーの作戦指導に対する疑問や懸念を直言する度胸も持ち合わせていなかったブラウヒッチュの態度は、1個軍集団が壊滅の危機に瀕する「有事」にあっては、軍全体の機能を麻痺させるだけであった。

 12月16日の会議において、ヒトラーは一向に「防御に適した前線」が定まらないことに業を煮やし、ブラウヒッチュが健康上の理由から同月7日に提出していた辞表を受理することを決定した。同時に、陸軍総司令部を通じて「現在位置から一歩も退いてはならない」との命令を、前線の軍司令官たちに下達したのである。

 ハルダー参謀総長からこの命令を聞かされた中央軍集団司令官ボック元帥はすでに麾下の4個軍に対して限定的退却を承認する命令を通達しており、その撤回は現実的に不可能であると判断していた。その結果、第2装甲軍・第3装甲軍・第4装甲軍・第9軍は、ヒトラーの命令に背く形で西方への退却を継続した。自らの命令が無視されたことを知ったヒトラーは激怒した。

 12月18日の朝、ヒトラーはあらためて次のような「死守命令」を中央軍集団の全将兵に対して発令した。

「大規模な退却行動を禁じる。そのような行動は、重火器と装備の完全な損失をもたらす。よって全将兵は損失を顧みず、全精力を傾けて現在位置を死守しなくてはならない。私はすでに、ドイツ本国および西部方面から東部戦線への増援を手配してある。それらの増援が到着するまで、絶対に現在位置から撤退してはならない」

 ヒトラーから再度の「死守命令」が下された時、ボックはストレスで持病の胃痛を悪化させており、軍集団司令官という苛酷な職務を継続することが難しい状態になっていた。そのためヒトラーは同日にボックに対して、中央軍集団司令官の辞任を認めた。後任の同軍集団司令官には第4軍司令官クルーゲ元帥が昇進した。ヒトラーはクルーゲに対してこれ以上の大きな撤退を禁じ、救援部隊が到着するまでソ連軍の進撃を食い止めるため「熱狂的な抵抗」を続けるよう命じた。

 12月19日、ヒトラーはブラウヒッチュの陸軍総司令官辞任を正式に発表した。

 12月20日、ヒトラーは「後任の陸軍総司令官は任命せず、総統である自分が陸軍総司令官の職務を兼任する」という方針を明らかにした。

 陸軍総司令官ブラウヒッチュ元帥と中央軍集団司令官ボック元帥がそろって指導部から離脱し、ヒトラーが陸軍総司令部に求めた「防御に適した前線」を確定できる人物が誰もいなくなってしまった。このような状況下で、ヒトラーが強権を発動して下した「死守命令」は中央軍集団の命運を左右する重大な賭けにほかならなかった。

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