8-3

 エスタ歴495年1の月2日午前8時27分。空賊の街エスカフィーネ、飛行場にて。


 いつでも飛行可能な小型飛行船を待たせること、すでに30分以上経過している。


 身を切るような冷たい風の中、クロードは後5分だけ待とうと決めた。


「アニキぃ! ごめぇん、待ったぁあ?」


 ブルーノの野太い声が風に乗って聞こえてきた。


 それから、内股で走ってくるブルーノの姿も確認できた。パンパンに膨らんだ女物の旅行かばんは、まるで鈍器のようだ。


「待ちくたびれたぞ。ったく、なんだってお前がついてくるんだよ」


 さっさと小型飛行船のゴンドラに乗り込むクロードに、ブルーノは芝居がかった驚きの声を上げる。


「あらあら、だって、アニキの方向音痴は生死に関わるレベルですもの。誰か一緒に行かないと、帰ってこれないわよ」


 クロードは言い返すかわりに鼻を鳴らす。


 彼らが勝手知ったる他人の飛行船の船倉にたどり着く前に、小型飛行船はアンカーを巻き上げた。


「せっかくの休暇を、俺と一緒にいることもないと思うぜ」


 やっと苦し紛れに思いついた台詞がこれだ。


「半年近く恋の病に苦しんだアニキが、愛しのシルフィーちゃんを探す旅ですもの。這ってでもついていかなけりゃ、オカマの風上にはおけないわ」


 鼻息が荒くなったブルーノに口で勝てる自信が、クロードにはなかった。


 ため息をついて、自分の致命的な方向音痴を呪わずにはいられない。


 足早に船倉に向かい腰を据えたクロードにとって、足を充分に伸ばせるだけでマシだった。


 恋の病というのは否定したいが、シルフィーを探しに行くのは事実だ。


 今思えば、なぜあの時負けられないと強く思ったのか、繰り返し自分自身に問い続けた。


 飛行船に乗せてから、シルフィーの美しさに気後れしていた自覚はある。だが、恋という形をなしていなかったはずだ。


 だというのに、レイヴンがシルフィーを賭けて一騎打ちを申し込んできた時、クロードは負けられないと強く思った。


 クロードがクロードであるための何かを失うことを、あの時すでに知っていたのかもしれない。だから、負けられないと恐れたのかもしれない。


 そう、あの日からクロードは大切な何かを失ってしまった。


 恋ではない。もっと大切なものを失ってしまった。


 何かを失ったはずなのに、心に枷がついたように重い。


「で、まずはレイヴン商会のあるヴォルグに行くんでしょう?」


 ぼんやりと窓の外を眺めていると、いつの間にかブルーノが隣に腰を据えていたことにも気がつかなかった。そのことに驚くこともできないほど、クロードの心は重く鈍くなっている。


「いや、レイヴンは気に入らねぇから、まずはダーウィグに行く。ヴォルグ行きは最終手段だ」


 クロードはレイヴンに言い知れぬ得体のしれなさを感じていた。関わりたくないと思わせる何かがある。


「ダーウィグ? あぁ、なるほどねぇ。確かにそれが一番ね」


 この旅は、彼がクロード・ランドウォーカーになるための旅だ。





 少年少女が大切な人のために大樹海を飛び出すことで始まった、始まりの物語はこうして幕を下ろす。


 そして、物語を回す役目はとうの昔に大切な何かを失った男に引き継がれる。




『蒼穹飛行船物語』完









 ――『暁風比翼物語』へ続く

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蒼穹飛行船物語 笛吹ヒサコ @rosemary_h

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